私のファミリーヒストリー

 静岡県袋井市、森町の教育委員会では、毎年数回の「報徳講座」なる会を開催している。“報徳“とは、二宮尊徳の教えを継承する活動であるがここでは省略。明治、大正期の報徳活動家の一人が私の曾祖父・鈴木藤三郎であった縁もあり、たびたび講演に出演している。去る12月15日に「第6回 報徳講座」があり、私も講師の一人として招かれた。今回の主題は、台湾・屏東県に地下ダムを造った、台湾製糖技師・鳥居信平の事績であり、鳥居信平の孫の鳥居徹東大教授、池田龍彦放送大学副学長、鳥居の台湾の研究者・丁澈士教授、「水の奇跡を呼んだ男」の著者・水野久美子氏など錚々たるメンバーが一堂に会した。
 私はそこで少し場違いながら、祖父、祖母の家族事情が掲載された大正。昭和初期の古い新聞記事を紹介した(本邦初演)。
 実業家・鈴木藤三郎が大正2年に急死、祖父の次郎が事業整理に奔走する。其の事業の一つが「釧路水産所」であった。釧路に足しげく通う内に懇ろになったのが、我が祖母・フクである。彼女は釧路きっての名妓・勝丸姐さんであった。次郎は先妻と別れ祖母と駆け落ち同然の生活を送るのであるが、清水の篤志家の支援もあり、清水市でブロイラー業を立ち上げ成功するというサクセスストーリー?でもある。其の顛末が、当時の静岡新聞?、釧路新聞?に掲載されていて、先年函館の叔母から譲り受けたものを題材とした。
プライバシー、個人情報などお構いなしの記事であるが、読み物としては面白い。ご笑読あれ。(大正末期の日本語は現在とかなり語句の使い方が異なることを申し添えます。)
終わり

添付:講座レジメ 表紙及び新聞記事P-12/P-13

*添付新聞記事(P-12/P-13)は見難いので、以下にその現代日本語訳を載せます。

p-12 釧路新聞?昭和二年八月二十二日

俗塵をいとふ愛の強さ
名妓勝丸が綴った涙ぐましい人生記録
(一)
勝丸といえば嘗て釧路の土地が育んだ名妓!ましやけし(ママ)其美貌と思い上がった(ママ)其起居とは、あらゆる遊子の胸をときめかしたものだが二十六年の生涯迄かりそめの紅唇をすら許さなかったしっかり者。それが一度命を打ち込んだ男に出会ったその日を境に、クジャクの如く誇りがな生活をかなぐり捨て、京都の聖地一燈園に相携えて逃れ去るまで、涙ぐましい発心振りこそ当時の花柳界をどんなに驚かせたことか、中央の諸新聞は筆を揃えて此美しい純愛と、勇ましい冒険との人生記録を綴ったものである。

昔の勝丸ねえさん、今の鈴木ふく(三五)さんは、ちょうど実家である浦見町五丁目一番地富田政吉方に法要のため帰ってきてる(ママ)。早いものでもう三人の娘さん達の母である。
つんつるてんの筒袖許り着て居てじゃらゝしたのは久しぶりだというふくさんは、照子姐さんからの借着を気にしながら記者の前に座って、汗と埃の労働にすっかり日焼けしてしまった昔の勝丸さんは、鳩のような明眸とすんなりしたスタイルとに僅かに在りし日を偲ばせる。浮いた稼業にまつわる思い出や気分は、前世に置き忘れて来たといったかたちである。

釧路水産界の恩人鈴木藤三郎氏の令息次郎氏がふくさんの想われびとであった。何不自由ない家庭に育った鷹揚さと、金に飽かした駄々邏遊びは、其の頃の色街を席巻したのである。ふくさんと次郎氏が堅い契りを交わした頃、次郎氏の妻君は男まさりの腕で、自由自在に家政を切り盛りしていた。当然起こらねばならない三角の悲劇。併し「賢明すぎる女にはもうこりごりだ」というのが次郎氏の口癖だったことから見ても、此の悲劇のどん詰まりはたやすく想像できる。恋の凱歌は遂にふくさんに挙がったことである。

巨萬を以って数える親譲りの財産を別れた妻に与えて、次郎氏は愛と共に裸一貫社会に乗り出した。数奇を極めたローマンスの世界は、お互いに愛することより何も知らぬ男女(ふたり)の前に其扉を開いたのである。
(二)
此勇敢な恋の騎士はどっちかといえば変わり者だった。父親が亡くなってから、残された事業を引き継いでは見たものの、戦後の不況にかてて加えて、後から後から押し寄せる債権者たちは、お坊ちゃん上りに圓天の離れ業を演じさしてくれる道理もなかったのである。氏は財産などの当てにならないことや暫く親族間の非難の的となっていた勝丸との関係などをしみじみ考えた。すべてはどうにも抜き差しのならない世間なのだ。恋の騎士には、何事にもかかずらうことが此上なくうるさく、いとわしいものになって来た。実弟の五郎氏はとっくに此悩みを体得し一燈園へ走って了っていた。

人生の転機が訪れた。あらゆる義理を忘れ、係累を脱してただ愛する者同志の天国を建設しようという望み、それは次郎氏の如き性格の人が当然辿って行く心的経過だった。宗教的信仰心から世の中を捨てるものはある。併し白熱した恋愛から俗世をいとうところに氏一流の哲学があった。打算的な余りに打算的な現代の社会ではこうしたことも馬鹿げた精神上の戯れとしか見まい。ひとりよがりの臆病者の仕業としか思うまい。併し血みどろな犠牲を払って勝ち得た恋愛なればこそ、ありの儘の社会に置いたんでは遠からず蝕んだり腐ったりする日の来ることを、氏は深くも知り抜いていたのである。

かくして一燈園での聖らかな生活は始まった。下座奉仕のモットーのもと、名利も欲得も之空と観ずるその日々々こそ氏にとっては誘惑に富んだ安住の殿堂だった。園の人達が代わるゝ托鉢に出かけたあとを、静かに留守居するのが勝丸さんの役目だった。此処で約一年の間育った娘のおはるさんなどは、今でも「釈迦如—」などと其時覚え込んだ朝夕のお勤めを口癖にしている。天香先生は禅宗が好きなのだそうである。

其頃勝丸さんの姉の今の照子が久子と連れ立って此の一燈園に尋ねて来たことがある。照子は例の調子だったが、久子の方は何を思ってか「とても素敵ね。こんなところで一生暮らしたい」と言い出し、一時はてこでも動かない気配を見せたものだ。「変な気でも起こされては事だから、あんなに狼狽えたことはなかったわ。何でも構わずぐん〱引っ張るようにして帰ってきたけれど」照子は思い出して笑った。ありそうなエピソードである。
(三)
「一燈園へいらした時の気持ちを話してください」との記者の質問に、ふくさんは長いまつげを伏せる。「妾には何も解らなかったんですけど。夫を信じていましたから」なんという意味深い言葉であろう。無報酬で人々の厭がる下々の仕事をして廻ったり、托鉢に依って得た米や味噌だけで食うや食わずの生活を営んだり、こうしたなかにあって、ふくさんは若さも誇りも捨てて、ひたすらに男を愛し男を信じつつ、此仙境に籠ったのである。

天香先生の許で透徹した人生観を把握した次郎氏は、其後先老に縁ある人の応援を得て静岡の在に養鶏場を経営した。「人間を相手にするよりは,邪気のない鶏を相手にする方がいいんでしょう。殊更目をかけてやったといっても、まさか金の卵は産んで呉れませんからね」ふくさんは晴れやかに笑った。「だんだん増えて増えて今では六百羽も居りますのよ。鶏舎も七つになりました。中々むつかしい鶏屋さんで、肝油やらオリザニンやらを入れて餌を造るんですの。始終外国から雑誌などを取り寄せて新しい飼育法の研究ですわ。だから一家の生活費より鶏の食費の方がずっとかかってよ。鶏を飼ってると思ってはいかん。鶏に飼われてると思えって主人はいつも申しております」ふくさんの話は飽く迄面白い。

緑の里というのが此養鶏場の名前である。朝四時頃起きて、鶏舎の掃除をしたり、病気になったのを世話したり、産んだ卵を磨いたり、目方を計ってより分けたり、それからそれへと骨の休まる時もない。そして夜は早くとも十時過ぎ、ひよこのうようよしたなかで横になるという。其如何に激しい労働であるかは遊びに行った照子姐さんが、五日許り働いてまたそれだけ寝込んでしまったことでも解る。記者は真黒に日焼けしたふくさんの顔をもう一度しみじみと見直した。

人々から遠くへだてた山里。鶏を伴侶として淋しいが充たされた恋堂の三昧境よ。「近頃は世の中へ出るのが面倒臭くなりました。主人も時たま商売上のことで町へ出ますが、帰って来るときっとぐったり疲れて寝て了うんですよ」ふくさんの瞳は幸福其物のように輝い。
(完)


p-13 静岡新聞?大正十五年?

折戸海岸に養鶏と信仰生活
西田天香門下の鈴木氏が緑の里家禽場を経営

蔵相の失言だ。財界の攪乱だと世間は血みどろ騒ぎ。此の中で生活を芸術化して行きたいというモットーのもとに魂の飢えに泣き生活の痛苦に悶える現代人と離れて清水市三保折戸海岸に同志の者二人を雇い養鶏業を営み乍ら

絶対愛に生きる信仰生活を送っている人に緑の里家禽場主鈴木啓文氏がある。記者は詩でも飛び出そうなすばらしい日和午後氏を訪れた。
× × ×
三保の船着場から西に弐拾丁余り白砂の道を渚に躍る浪の音を聞き乍ら爽やかな松林の匂いに包まれて行くと三保折戸に至る。「鈴木さんのお宅は」と通り合わせた子供に尋ねると直ぐ知れた。海岸の松林下に小奇麗な建物が四棟行儀よく並んである。刺を通じると丁度作業中の鈴木氏は「さあどうぞ」と

人懐しげに迎えてくれた。氏の語る処に依ると同園では目下白色レグホン種六百余羽を最新式養鶏法に依ってきわめて合理的な管理を施しているそうで、二百十七個という奇跡的な産卵レコードすら現しているそうだ。
× × ×
鈴木氏は当年四十四歳以前西田天香氏の門下にあった人で此頃では時々付近の青年や處女の会合に招かれて精神修養的な講和を試み不確実な収益と生命の危険が伴う漁民生活の精神的安定を図るのに務めている。

愛妻ふく子さん(三二)との間に晴子さん(九つ)文子さん(七つ)みどりさん(三つ)との三女があり一番姉の晴子さんは目下小学校の三年級に在学中である。一家雇人揃って毎朝読経を済まし各自の作業に就き読経を済ましては床に入るという信仰生活を送っている。× × × ×
記者の空虚な胸に言い知れぬ感激を覚えて同園を辞し午後の太陽がさんさんと門の蔦を射していた。
(完)

発表表紙
釧路新聞
静岡新聞

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ファミリーヒストリー楽しく拝見いたしました。昔の時代の背景が浮かびます。

  • 歴史が形として現存しており、歴史を継承し、多岐にわたり活躍されているのはすばらしいことですね。