関西小樽会ブログ

小樽出身者、小樽滞在経験者、これから小樽へ行く人・・・ 小樽好きのすべての皆さんのブログです。

小樽高商・小樽商大:あれこれ思い出すこと

小樽商大出身者でもない私がこのような題で書くことは誠に僭越なことと思いますが、道野真弘さんの「道野より、自己紹介です」を読み、又宮内昭治さんの「小樽が生んだ画家、中村善作」の中の「緑丘回想」という小樽高商のキャンパスを描いた同画伯の作品を懐かしく拝見して、子供の頃からの数々のことを思い出しております。
これらを書いてみたいと思います。しばし駄文にお付き合い下さい。


環境:
私の生家は緑町1丁目の角にあり、花園町方面から歩いてくる庁商生や高商生が小樽公園を下って我が家の前を通り、もみじ橋通りを登り右手に石原慎太郎・裕次郎兄弟が住んでいた水色の瀟洒な洋館の山下汽船支店長宅を通り過ぎて間もなく稲穂町方面から高商通りを登ってくる学生と合流して地獄坂を登って通学しておりました。
また高商の先生方の官舎や学生寮が緑町や最上町に点在しておりましたので、そのお子様たちは緑小学校に通学しておりました。
私の同学年にも南亮進君(経博・一橋大学名誉教授)、西田豊彦君(公認会計士、小樽商大卒)、卜部守元君(横浜の船舶資材会社のオーナー会長、一橋大卒)がいました。
終戦直後の食糧難の時期には、父が身元引受人をしている宇治山田商業出身の経専生が我が家に寄宿しており、当時中学生の私に英語や漢文を教えてくれました。
また時々経専の友人達が、我が家に来ておりました。
小樽高商の建物や、その前にあるやぐら建ての高商シャンツエが家の
2階からよく見えました。
このように、子供時代の高商の印象は私の頭にガッチリと刷り込まれているようです。


父母のこと:
私の父寺崎昌三は、富山県の高岡中学を卒業後台湾に渡り3年程台北の商事会社で働き学資を貯めて後、小樽高商に入学しました。
高商では年長者であったため、学生仲間からは「オジサン」と呼ばれていたそうです。
大正
15年同校卒業と同時に、庁立女学校を卒業して家事や店の手伝いをしていた母のところに婿入りしました。

母は、京都宇治の茶商で玉露の開発者であり、全国各地の茶の栽培の指導者でもあった上坂清左衛門の家に生まれ、父が急病死したため小学生の時に弟清一とともに、小樽の早川商店の早川省三の養女となりました。
弟は上坂姓のまま庁商・小樽高商・東京商大(一橋大)へと進みました。

父は高商の寮から直接早川の家に移転してきたようで、父の本棚には高商時代に使った辞書やテキストがそのままありました。
その中に苫米地英俊著「商業英語通信規範」やチャールス・ラムの「シェクスピア物語」やスティーブンソンの「宝島」などがありました。

父は地元緑町に住む自営業者として高商の後輩たちの面倒を見、緑丘会のお手伝いをし、先生方とも広く交流しておりました。
小林象三先生とは文化活動関係で、木曽栄作先生とは貿易や商事関係で、また前校長苫米地英俊先生が戦後初の衆議院議員選挙に立候補した時は選挙運動に奔走しました。
高商が商大に昇格する時には、隣に住む早川本家の主人で経済学者・文筆家の早川三代治さんと大野学長との教授就任についての懇談の一席を設けたと云っておりました。

運動部の学生が遠征費用などを調達するため奉加帳を持って市内の企業を回る時は、山から下りてきて第一番に「先輩お願いします」と早川商店に来たものです。

またラグビー部がよく近くの小樽公園のグランドで練習をしていましたが、練習中怪我人が出ると先ずは我が家に担ぎ込んできました。
そして二階の部屋で母が手当てをしたり、医者を呼んだりしておりました。

 


スミルニッキー先生:
早川商店の帳場のところに、椅子を並べただけの簡単な応接室がありました。
毎夕のように銀行や船会社や商社勤務のおじさんたちの誰かが、緑町や最上町の社宅に帰宅する途中店に立ち寄りこの応接室で談笑していました。
そこに、高商のロシヤ語教師で白系ロシヤ人のスミルニッキーがよく来て談話に加わり皆を笑わせていました。
小柄で愛嬌のある異人さんで、自分は動物が好きで家には猿・犬・雉・猫や生簀にはたくさんの蛇がいるよと誇らしげに云っていました。

我々家族とも親しくなり、一緒に家族全員でオタモイの竜宮閣へ遊びに行ったこともあります。
私が 六才の時のクリスマスの日に、スミルニッキーがロバ橇を仕立てて家に来ました。
そして「ボーイにプレゼントをあげよう」と云って私を抱っこして、トナカイ橇を操るサンタクロース然として、ロバ橇を操り大国屋デパートに連れて行ってくれました。
あとから思うに、スミルニッキーはいろいろな動物を飼っていましたがこのロバはマッキンノン先生から借りてきたようです。


小林象三先生:
2の夏休みから高2の春先生が京都大学教授に転出されるまで3年間、毎日曜日午前10時から正午まで、小林先生のお宅で他の中高生数名と共に英語を教わりました。
授業は先ず我々に発音記号の母音表を読ませ、文章を読ませアクセントやイントネーションの誤りは厳しく直されました。
イソップ物語やフランクリンの自伝などをテキストにして、英米の文学・歴史・文化についていろいろなエピソードを加え面白く話してくれました。
先生は「銀幕の人」と呼ばれていたようで、英米の映画のことは毎回のように話してくれました。
当時上映された「ガス燈」「若草物語」「哀愁」などが記憶に残っています。

先生の家に行くと玄関で奥様と奥様の妹さんが我々を出迎え、帰る時には先生・奥様・妹さんの3人が玄関まで来てにこにこしながら「君のお父さんは元気かい」とか「お父さんによろしく」など声をかけて見送っていただきました。
小林夫人とその妹さんは京都人でおしとやかな品のある方でした。
伊藤整は自伝的長編小説「若い詩人の肖像」の中に、小林宅で初めて夫人と妹さんに会った時の印象を克明に書いています。
生徒の中には、当時小樽市民に人気のあった恒例の高商外語劇のフランス語劇メーテルリンクの「青い鳥」に、伊藤整や小林多喜二とともに出演した茶谷豊彦さん(上記「若い詩人の肖像」)の息子さんや早川三代治小樽商大教授の息子さんもいました。
映画好きの先生は、よく山高帽をかぶりこうもり傘をステッキのように振りながら、英国紳士然として我が家の前を通り、花園町や稲穂町の映画館に通っておりました。

私は昭和31年慶応大(経)卒業後、食品専門商社に入社し砂糖部に配属されました。
この会社は、戦後マッカーサーの財閥解体命令により旧三井物産が解体され、その食糧部門の人々が集まって設立した会社で、課長以上は全員物産出身者でした。
英語の上手い人もたくさんいましたが、特に入社
1年後にニューヨーク支店長から着任したK砂糖部長は英語の達人でスケールの大きい国際貿易商人でした。
英文の手紙を書くときはステノグラファーを傍に口述していました。
私は商業英語習得の必要性を痛感し、早速木曽栄作著「商業英語活用辞典」を熟読しました。
この辞典は英語と同時に貿易実務も習得できるようになっており、家に帰ってから英文タイプライターの練習を兼ねタイプ書きを繰り返し殆んど丸暗記しました。
32才の時、実力試しに受けた実用英語検定(英検)1級の試験に幸運にも一発で合格しました。
京都の小林先生にも報告すると、直ぐにお祝いと激励の英文のハガキをいただきました。
間もなく、砂糖部で業務の傍ら海外の取引先向けの英文砂糖市況週報の執筆も担当するようになり、
1年後の昭和43年にニューヨーク支店に砂糖担当として転勤しました。

NY着任後小林先生にハガキで報告しました。
折り返しいただいた英文のハガキには「精々
NYの生活を楽しんで下さい」と書いてありました。
1年後には家族も来て、4年半NYで仕事や生活の貴重な経験をすることが出来ました。

昭和4712月に帰国して関西に住むようになりましたので、京都の小林先生のお宅にご挨拶に行こうと思っていましたが、何やかにやで行きそびれてしまいました。
小樽の小林宅での
3年間の英語のレッスンが、私の人生の方向を決定付けたと云っても過言ではなく、感謝しています。


戦争の運命:
昭和1612月日本は太平洋戦争に突入、高商の多くの外国人教師はスパイの嫌疑で監禁されたとか、本国へ強制送還させられたという噂はありましたが、厳しい言論統制と戦局が激化していく中でそのことは誰も口にしなくなりました。

かねてから子供の頃お世話になったスミルニッキーが、戦争中や戦後どのような生活をしていたのかを知りたいと思っていましたが、平成226月に潮陵高校の同期会出席のため小樽へ行った機会を利用して小樽文学館を訪ねました。
玉川薫副館長から特別展「異人さんのオタル」、小樽商大教授荻野富士夫さんの記念講演「小樽高商の外国人教師達」の案内チラシや、高崎徹「スミルニッキー先生についての思い出」や伊藤整「初めてのアメリカ人―マッキンノン先生のこと」やリチャード・ストーリー「小樽での緑の春」を記した小樽文学館発行の小冊子をいただきました。
同時に、小樽商大百年史編纂室の白井孝典さんを紹介して頂きました。

いずれも貴重な資料で、スミルニッキーは開戦と同時に札幌の拘置所に監禁され、終戦で釈放されましたが、その後不運な生活を余儀なくされ、衰弱しきって間もなく亡くなったことが分かりました。
また英国人リチャード・ストーリー先生が緑丘五十年史に寄稿した上記の回想記には心を打たれました。

平成23年5月関西潮陵会の有志一行で、潮陵高校訪問および小樽周辺観光の旅に出かけました。
現地解散後小樽商大に行き、スミルニッキーの記録やストーリー先生が回想記に書いている「二本のポプラと街と港と海の向こうの留萌の彼方の山々が描かれている」絵や原風景を見てみたくて小樽商大を訪問しました。
平井孝典さんは不在でしたが、百年史編纂室の簔口愉花さんが新装成った資料館に案内してくださり、スミルニッキーやストーリーの雇用契約書や著作物を見せていただき、いろいろ説明していただきました。
小林象三先生や、フランス語教師大黒マチルド先生のことを書いている緑丘アーカイブス
10号、11号も頂戴しました。
また東博通著「北の街の英語教師・浜林生之助の生涯」(開拓社)を紹介して頂きました。
簔口さんと別れてから一人で学生食堂のヴェランダに出て、ストーリー先生が絶賛していた校庭から見た小樽の街と港と海の向こうの山々の景色を眺めました。
あいにく曇り空で海の向こうは見えませんでしたが、景色をカメラに収めてきました。
帰宅後早速「北の街の・・」を買い求め、今何回も読んでいます。


小樽商大とのきずな
:緑小学校以来の友人で札幌緑丘会の幹事をしている佐藤惇君(江別市在住)は毎年小樽商大で行われる伊藤整文学賞授賞式に出席しているようで、時々商大のニュースを送ってくれます。
小林象三先生に関する記事を掲載している小樽商大百年史の抜粋のコピーや、女性応援団長が商大
/北大定期戦で口上を述べた場面の新聞記事のコピーも送ってくれました、

また私の一番下の妹の主人藤森孝雄君(札幌市在住)は小樽っ子のヨットマンで、現在小樽商大ヨット部の顧問をしています。
暇さえあれば祝津の艇庫に出かけ、各地のヨットレースに参加しています。

百年余の歴史と素晴らしい伝統を有する小樽商大は、今後とも時代の要請に応えグローバル化した日本や世界で活躍する人材を輩出し続けることでしょう。小樽商大のますますの発展を祈ってます。             早川 宏                      

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この記事へのコメント

  • 本日、緑丘会(小樽商大の同窓会)阪神支部の皆さんにも配布するよう手配いたしました。皆さん、学生時代を思い出しながら懐かしく読まれることと思います。