関西小樽会ブログ

小樽出身者、小樽滞在経験者、これから小樽へ行く人・・・ 小樽好きのすべての皆さんのブログです。

栖原家と北方領土 その2

徳川幕府が崩壊し、明治新世となってからも、断然実業界に重きをなし、明治五年開拓使より北海道産物為換取扱方並びに、仕入品用達を命ぜられ、また東京・大阪貸付会所合併取扱方、樺太州御用達、廻船問屋頭取など重要な職務の責任者となり、幾多の公務に尽力した。

その後、樺太海岸の漁場支配、明治新政府になってからも、数多くの請負い漁場を保証され、公共事業への投資、教育、民生、産業関係に多額の寄付を行うなど、蝦夷地開発のため、貢献しました。しかし、明治八年ロシアとの間に締結された樺太・千島交換条約により、須原家は樺太における莫大な資産権利を放棄しなければなりませんでした。それは、祖先以来数十万両に及ぶ巨額の資本をかけて開拓した漁場58か所、沿岸600kmに及ぶ広大なものでした。この補償として、栖原家が政府から受けたものは、当時の評価額120万円に対してわずか1万8千円に過ぎませんでした。

しかし、栖原家は東蝦夷を根拠として一層事業に意欲を燃やし、西洋型帆船による運輸業への投資や、択捉島での鮭鱒の人工孵化、硫黄の試掘、ウルップ島に於ける新たな漁場の開発を行いました。

栖原家代々の角兵衛が、北海道、北方領土の開拓に尽くした功績は、実に偉大なもので、その功労により、明治14年黒田北海道開拓使長官から賞状と紅白縮緬二疋を贈られ、同年明治天皇北海道行幸の際には、親しく感謝状を与えられました。このように活躍した栖原家も樺太・千島交換条約の痛手により、その後の業績芳しくなく、明治28年三井物産に整理を託して、北方の事業からいったん手を引きました。

大正二年頃、大隈重信侯は、十代角兵衛と旧交ありて、栖原家がロシアとの国際問題により蒙った大いなる犠牲に深く同情されて、報償の途を講ぜんとされ、時の議会に対し報償法案を提出したが、両院採択となるも、政府は明答を与えず、栖原家に対する巨額報償に至らなかったが、大正六年に三井より返還された漁業権をもとに、漁業経営を再開すると同時に漁業権の4~6分の1程度を漁獲物で納めて貰う物納を主体とした賃貸を行い、製品の販売を行う商業資本として機能しました。

しかし、再興した栖原の状態はかつての状態に比肩しうるべくもなく、往時の栖原の面影は全くなく、それでも択捉方面の漁業権は昭和二十年まで続き、ロシアが中立条約を破り侵入し、略奪され、択捉島にあった栖原家の資産すべてを失い、三百有余年続いた栖原家の終焉を迎えるのである。

(参考)

場所・・・蝦夷島は米を産しないので、知行(給料または俸禄)として主だった藩士には全島沿岸の漁場を与えた。この漁場が場所と称するものである。他の藩士は、蔵米取(くらまいとり)という、知行地がなく米で俸禄を支給される武士であった。場所というのは「商い場所」というのが元来の意味であった。それは先住のアイヌの勢力が強いので、商い船を派遣し、土産物として酒やタバコ、衣料品、米などを持参し、その返礼として、アイヌの漁獲物である鯡(にしん)、鮭鱒、昆布などを得て帰藩する形式をとった。あくまでも対等の関係であって、経済的には物々交換であるが、実質的には「商い」であり、商いの場所は船上または陸上の仮小屋であったが、後にはほとんど仮小屋で行われ、これが運上屋と呼ばれるようになった。漁獲物でも春の鯡は島の周辺が豊漁で、漁期の浜は繁昌し、「江差の五月は江戸にもない」と云われた江差などは、一夜で一か年分の生活が出来るほどの値の鯡が獲れ、鯡という字が生まれた。鯡は、松前蝦夷地では魚であって魚に非ず、米に代わる魚だ、というので、鯡という訳である。

知行主は漁期には自船を仕立て、自分の場所に行って漁獲物を得て帰り、それを内地から来た商人の船から、米、味噌、日用品、衣料品と交換して、一年の生計を立てるのである。知行主は、身分の高い者は数場所を持っていた。藩主は数多の直場所を持ったことは勿論である。

「武士の商法」という諺がある。馴れない商法で商売するより手馴れた商人を代理人として場所に派遣する者が増加し、知行主が直接場所で商うことは永くは続かなかった。経営が不振であることと、商人からの債務がかさんで、その代償に自分の場所を商人に請け負わせるようになるのである。十代藩主矩広の頃に場所請負制度として確立し、場所請負人として近江商人が蝦夷地に進出した。

北帳場・・・栖原屋、伊達屋両家による現代の事業推進の為の企業共同体のようなもの。

<続く>

補足:寺島様の原稿では北帳場という屋号の前に、〇の中に北の字を入れた店印がついておりますが、本ブログではプログラム上表現ができませんので、屋号のみの記載となっております。(管理人)

 

terashima-2015-01-19

 

(一つ新しい記事)

(一つ過去の記事)

この記事へのコメント

  • 1 樺太・千島交換条約に伴う損失を日本政府が公平に  保障してくれていれば、又、戦後のソ連の不法侵入  なかりせばと、残念でなりません。
    2 寺島様から、原稿とともに、分厚い本4冊と、本に換  算すると5冊分ぐらいに相当する資料をお預かり   し、開いてみたら、赤い線がいっぱい引いてあり、  よくもこんなに読まれたものだとびっくりしまし   た。