関西小樽会ブログ

小樽出身者、小樽滞在経験者、これから小樽へ行く人・・・ 小樽好きのすべての皆さんのブログです。

余市とニッカウヰスキー:あれこれ思い出すこと

 NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」もいよいよ最終局面に入ってきました。私も毎朝8時前に犬の散歩を終え、わくわくしながら見ています。またこれを見ていると余市やニッカウヰスキーの子供の頃からの思い出が走馬灯のように巡ってきます。多分に個人的な話も含まれ恐縮ですが、駄文を読んでいただければ幸いです。

 

 余市に疎開:昭和20年8月の初め国民学校が夏休みに入ると母と6年生の私・妹3人・弟(2才)が余市の黒川町の林檎農家・飯野梅次郎さん宅に疎開しました。父と庁立女学校4年生の姉は小樽に残りました。当時既に東京や他の大都市では学童の集団疎開が行われ、米軍のB29爆撃機による空襲は連日熾烈の度を増し、その範囲は山形や青森まで北上しており北海道も時間の問題と云われていました。現に7月には夜間にB29が小樽に飛んできて照明弾を落とし写真撮影をして行きました。小樽祭りの7月15日には敵機動部隊が北海道近海に現れ、朝からラジオの「北部防空情報」は警戒警報を発し「本日は敵艦載機による機銃掃射にご注意下さい!」と呼びかけていました。昼頃突如数機の敵戦闘機が港の上空に現れ砲弾の音が響きました。皆慌てて防空壕に入りました。小樽市内のあちこちの角地にある建物は焼夷弾による延焼を防ぐため強制的に撤去させられていました。ところで疎開当日われわれは余市駅から馬車に乗せられ1時間程して夕刻に飯野さん宅に着きました。そこでびっくり、電気がなくランプの明かりで夕食をご馳走になり、五右衛門風呂に入りました。翌日から6畳一間で母を中心に疎開生活が始まりました。昼は飯野さんの子供たちと納屋やリンゴの木の下で遊びましたが、電気が来ていないのでラジオも聞けず、夜はローソクが頼りなので早めに寝床につかねばならず、何とかラジオで戦況や防空情報を聴きたいと思い毎日のように2キロ位歩いて岡崎さんという農家に行き、土間でラジオニュースを聞かせてもらいました。わがままな話ですが小樽の生活が恋しくなり、父に「魚食いたい」と書いてはがきを出しました。すると父から空襲で死ぬ覚悟があるなら戻ってもいいよとの返事がありました。8月10日頃姉が余市まで迎えに来てくれて私だけ小樽に帰りました。姉は昭和18年ころから女学校の「援農」でしばしば余市の農家で林檎の袋掛けやイチゴの摘み取り作業をしていましたので余市に来ることには慣れていたようです。小樽に戻り8月15日には学校に集合させられ、先生から今日の正午には天皇陛下の重大な放送があるから家に帰って聞きなさいと云われ、父や姉とともに「玉音放送」を聞き、父から日本が負けたことを聞かされました。

 

 小作農家・飯野梅次郎さん:祖父早川省三(旧姓中村)は福島県の農家の生まれで、明治の中頃新しい仕事を求めて小樽に来たようです。間もなく早川本店で働き始め、やがて番頭となり店主早川両三の養女せつと養子縁組して早川姓となり、隣に雑貨店を開店しました。当時福島から入植して林檎その他の果樹を栽培していた仲間達との交流を続けていた関係で余市の林檎園を取得したのではなかろうかと推察しています。祖父は私が5才位の時亡くなりました。毎年11月頃には飯野さんが年貢とともにその年に収穫した林檎を持って来てくれました。その中には「国光」に加え飛び切り美味しい「インドリンゴ」や「デリシャス林檎」がありました。飯野さんには疎開でも大変お世話になりました。この農園は昭和22年GHQの命令による「農地改革」により飯野さんの所有となりました。父は日本の民主化のためには良いことだと云っていました.

初めてのニッカウヰスキー工場見学:
昭和15年頃から戦時統制経済に入り父は酒販組合に勤務していましたが、戦後の昭和24/5年頃には酒類も徐々に統制解除され、父は札幌の酒類販売会社「北酒連」の設立に参画し、同社常務となり毎日札幌に通勤するようになりました。当時はまだ酒類の原料や資材の不足が続いており、父は販売する酒類を確保することに苦心したようで、道内や東京の酒類メーカーを頻繁に回っていました。余市のニッカウヰスキーにも製品供給方お願いに通ったようですが、同社は他社と違い戦争中から豊富にウヰスキーの原酒を貯蔵していたようで希望通りの数量を売ってくれた
ようです。それもその筈、同社は戦時中海軍の「指定工場」となり原料大麦や石炭などの諸資材も十分な配給を受けて24時間操業をしていたようです。竹鶴社長のことや夫人がスコットランドの方であることは以前から聞いておりました。昭和26年3月私が高校2年の春休みの時父が余市のニッカウヰスキーに連れて行ってくれました。同社の工場敷地に入ると先ず異国情緒漂う赤い屋根の煉瓦造りの建物が立ち並んでいる風景が目に入り圧倒されました。事務所では工場の方からウヰスキーの製造工程などの説明を受け、構内を案内していただきました。高校生の私には初めての経験であり強い印象を受けました。

 英会話研修:時は下って昭和31年私が食品専門商社に入社した時、新入社員は全員毎週1回朝始業前に英会話の研修を受けました。講師は毛利さんという滞米経験のある早大教授夫人でした。ある時英国の風物についてのトピックを話し合いました。私は高校時代に見たニッカウヰスキーのスコットランド風の建物について話しました。そして「その時私はスコットランドに来たような気持だった」”At that time I felt as if I were in Scotland.”と話しました。その日の昼休みに毒舌家の同期生M君が「早川君、スコットランドに行ったこともないくせに、スコットランドにいるようだったなんてよく言うな」と云って笑っていました。後年そのM君はロンドン支店勤務となり、当時会社はスコッチウヰスキーの輸入販売代理店業務や日本の酒類メーカー向けの醸造原料の商売を手広く行っていましたのでM君も何回かはスコットランドへ出張したのではなかろうかと思っています。なおM君(千葉県在住)とは年に1度は会い、年賀状の交換をしています。


リタ夫人と小樽:
リタ夫人は戦時中こそ敵国人と云うことで特高警察の尾行がつくなど監視され、街に出ても人に唾を吐きかけられたり子供に石を投げられたりしたため自宅に閉じこもり本を読んでいたようですが、戦前・戦後はよく小樽に出かけたようです。小樽には気楽に英語を話したり教えたりする友達がたくさんいたようです。当時は「北のウオール街」と呼ばれた色内や堺町には日銀、横浜正金銀行ほか財閥系各銀行や商社・船会社・石炭会社などの支店がありましたので、それらの支店長夫人たちの中にもリタ夫人と親しくしていた方もいたことでしょう。現に昭和18年に竹鶴家の養子に迎えられた竹鶴威さんの奧さんになった人は小樽の石炭荷役会社の社長の娘さんで、ともに英語を習っていた日銀の小樽支店長夫人の勧めで威さんとお見合いをして昭和26年に結婚したそうです。日本は戦後平和で自由な国になり、戦争中禁止されていた英米の名画が次々に上映されるようになり、リタ夫人はこれら映画を楽しんだようです。特にお気に入りは小樽の電気館で観た「哀愁」(原題WATERLOO BRIDGEだったようです。この映画は私も高校時代に観ましたが、スコットランドの名家出身の英国陸軍大尉とロンドンのバレリーナの美しくも哀しい恋の物語で、特にキャンドルホールで「別れのワルツ」(オールド・ラング・ザイン)の曲に合わせて二人が踊り、時計の針が夜12時を指す頃にキャンドルが1本ずつ消えてやがて闇に包まれていくというロマンティックなシーンは印象的でした。余談ですが、この「別れのワルツ」(farewell waltz)の曲は日本では卒業式の定番曲「蛍の光」ですが、この映画の影響で日本でも大ヒットし、デパートや商店街、はたまたパチンコ店の閉店を知らせる音楽として定着していることは皆様ご存知の通りでしょう。


オールド・ラング・サイン(
Auld Lang Syne):「良き昔の思い出」などと訳され、古き良き時代を思い出し、旧友との友情や絆を心にきざもうと優しく呼びかける歌のようです。その歌詞は1788年スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズによって書かれ、曲は伝統民謡のメロディーで、スコットランドでは大晦日や新年の恒例の歌となり、その後スコットランド人が海外に移住するにつれ、世界中に広まったようです。現在はいろいろな記念イベントや結婚式などでもよく歌われるようです。リタ夫人の最も好きな歌だったことには納得がいきます。なおこの歌から卒業式を連想する人が多いのは日本だけのようです。余談ですが小樽商大の教授であった小林象三さんの京大での卒論のテーマは「Robert Burnsの詩」であったそうです。ではオールド・ラング・ザインの話が出たところで終わります。

           Sugarlover

(一つ新しい記事)

(一つ過去の記事)

この記事へのコメント

  • いい記事を読ませて頂いたという気持ちでいっぱいです。

  • 本当ですね。
    私も2011年に、クリスチャンになりました。
    神様の護りを感じつつ見る、まっさんはまた格別です。