何時もBlogを楽しく読ませていただいております。皆様の記事を読んであれこれ懐かしい思い出が甦ってきましたのでそれらを書きます。皆様の談話の輪にかでていただきたく思い初投稿します。しばし駄文にお付き合い下さい。
長橋小学校・・岡山宣子さんの「桜とSLの運動会」とても懐かしく読みました。私は終戦の翌年の昭和21年に緑小学校から長橋の旧制小樽市立中学校に入学しました。家から学校まで片道1里の道程で、緑町の家を出て富岡町の住宅街を通り山沿いに歩いて砂留町の踏み切りを渡り、それから真ん中を川が流れる国道を西に向かってひたすら歩きました。長橋小学校までたどりつくと少し先に市中の校舎が見えてきてもう一頑張りと思って歩いたものです。市中は大正末期小樽の大富豪板谷宮吉さんが土地と建築費を小樽市に寄付して設立されたと云われ、校舎は柏葉などの美しい自然に囲まれた小高い丘の上にあり立派な校舎、広い運動場、テニスコート、プール、温室など設備は揃っていました。しかし戦後間もない食糧・物資の窮乏の時期であり多くの先生方は未だカーキ色の軍服や国民服を着ていました。夏は市中伝統の全校生徒参加の塩谷往復マラソン大会、秋は恒例の江別までの歩行会、冬は裏山のスロープでのスキー大会がありました。このスロープを滑りきったところに岡山さんの記事にある運動会見物席の最上段に当たる函館本線の線路があり時々SLが黒い煙を吐いて上りは喘ぎながらゆっくりと下りは軽快に速度を速め走っていました。2年生になった時新制長橋中学となり、長橋小学校などから男女の後輩達が入学してきました。先生方も大幅な異動があり宮内校長、英語の山中先生、宮崎先生(後桜陽高校へ)が市立高女から移って来られました。生物の松木先生は潮陵高校へ、英語の北川先生、社会科の熱田先生は緑陵高校へ行かれました。往復2時時間を要する通学でしたが3年間無遅刻・無欠席で卒業式では皆勤賞をもらいました。私は虚弱体質で小学校ではしょっちゅう学校を休んでいましたが、長中で鍛えられたお陰で健康体になることが出来たと思い感謝しています。
北照高校・・7月21日の南北海道大会決勝で駒大苫小牧高校を打ち破り見事3回目の夏の甲子園出場(春の選抜大会を含めると8回目)を決めたことは大変嬉しいニュースですね。正に北照野球の黄金時代の到来を感じます。
今春の選抜大会での北照の活躍ぶりについてのE高橋さんや日々是好日さんのリポートを読んで感激しました。私も3月24日の対菰野高校戦には甲子園で応援しました。当日藤田さんに入場券を貰い3塁側アルプススタンドの北照応援席に行きましたが、そこに北照の音楽教師をしている私の妹と主人(元小樽市職員)が小樽から応援に来ておりましたので彼らの近くの席に座りました。妹は過去にも何回か北照が甲子園に出場する時応援ブラスバンド員を友情派遣してくれている地元の高校(当時は夙川学園女子高校)と打ち合わせのため西宮へ来たことがあり、また甲子園で試合に勝利すると演奏される校歌「春は花なる」(録音盤)のピアノ伴奏を担当しております。今回3月末で退職することになっており、自分の伴奏した校歌を甲子園で聞けるのを楽しみに甲子園にやってきたようです。幸いにもベスト8まで進み2度も演奏され喜んでいました。今夏の大会も同じ校歌が演奏されると思いますのでまた何回も聞けることを願っています。なお蛇足になりますが妹はヴィオラを弾いておりヴァイオリンを弾く夫と共に小樽交響楽団や余市を本拠とする北海道農民管弦楽団のメンバーとして各地で演奏活動をしています。
バンビキャラメル・・日々是好日さんの(株)北海道村倒産のニュースを読み、時代の流れとはいえちょっと残念でもあり、バンビブランドを消滅させるのは惜しい気もしました。奥沢口のところにあった池田製菓は昭和26年にキャラメルの製造を開始し、同年ディズニーのアニメ映画「Bambi」が日本で公開され、私も見ましたが、大変好評を博し、翌27年にディズニー社からBambi Brandの使用権を取得して「池田バンビ」ブランドを立ち上げました。当時まだ砂糖は統制下にあり人々は甘いものに飢えていた時期でもありましたが、同社の強力な販売キャンペーンによりバンビキャラメルは爆発的な売れ行きを示しました。大型のセールスカーに数名のキャンペーンガールを乗せ「イケダーバンビーはおーいしーな」のコマーシャルソングを鳴らしながら市内を回っていました。昭和27年には砂糖も自由販売となり、日本の高度経済成長と国民の生活水準向上に歩調を合わせ池田バンビも著しい発展を遂げたようです。昭和40年前後私が商社の札幌支店に勤務していた頃は粉末ジュースがブームとなっていました。池田製菓もバンビブランドの粉末ジュースを製造販売していました。砂糖を担当していた私は原料の粉末ブドウ糖を池田製菓に売り込みたく再三同社を訪問しました。幸い潮陵の先輩である常務さんや資材部長が話を聞いてくれ、2-3年間に総計百トン程のブドウ糖を買ってもらいました。1980年代になるといろいろな種類の菓子類・飲料水が市場に出回る一方国民の健康志向から甘いものは控えられ、年間の日本の砂糖消費量はピーク時の300万トンから200万トン以下に急減していきました。バブル崩壊、少子高齢化の進展など悪材料が追い討ちをかけ粉末ジュースはとっくに姿を消し、キャラメルの消費も激減したようです。池田製菓は2003年に倒産し、2007年に(株)北海道村が菓子製造事業を継承したようです。日々是好日さんが云われるようにこのような変化の激しい時代にヒット商品を生み続け企業を維持していくことは大変なことですね。
簡単な自己紹介:私は緑町の酒類食料品店「早川商店」の家に生まれ、潮陵高校卒業まで小樽に住んでいました。商社入社後一時期5年ほど札幌支店に勤務(独身時期は小樽から通勤)しましたが、その後は東京、ニューヨーク、大阪、四日市と転勤しました。現在の西宮市には大阪支店に転勤した1973年以来40年間住んでいます。関西小樽会には2010年の新年会の時に入会させていただきました。私のニックネームsugarloverは商社時代主に砂糖の商売を担当していたためつけておりスマホなどにも使っています。
早川 宏
コメント
コメント一覧 (3件)
早川さん、私は昭和26年生まれで興味深く読みました。20年代の小樽の状況の記憶は殆どありません。
私の知らない話、機会あればお聞かせください。
懐かしいお話をたくさんありがとうございました。
懐かしいお話をたくさんありがとうございました。