北陸の北前船主を育てた豊郷町の又十藤野家 第3報

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寺島様からお預かりした残りの写真をご披露させていただきます。
尚、この藤野家の屋敷は、天保の飢饉の際、窮民救済のために建てられたものであること、又、我々が子供の頃に見かけた「あけぼの印」の缶詰は、この藤野家の事業だったこともわかりましたので、その記事を掲載させていただきます。
参考までに、「あけぼの印」は後の日本冷蔵、ニチレイだそうです。写真の人物はもちろん寺島様ご本人です。(E高橋)
写真に写っている藤野家の屋敷(又十屋敷)は、江戸時代幕末の頃、北海道に渡り呉服屋の見習いから、「柏屋」という屋号と「又十」の商標の呉服屋を創り、そのかたわら漁場を開き廻船業まで経営した藤野喜兵衛の旧邸です。
藤野喜兵衛(初代四郎兵衛)は、豪商高田屋嘉兵衛と提携して廻船事業にも進出し、北前船7隻を持つまでになった。
彼は、当時の松前藩から絶対的な信頼を受け多くの漁場を開き、根室、千島列島全島の漁場から鮭鱒を捕獲して大阪、兵庫下関に輸送し販売に手がけた。
彼の業績は代々受け継がれ、鮭鱒缶詰工場と発展し、「あけぼの印の缶詰」で知られるようになった。
会館の建物は「又十屋敷」と呼ばれ、当時の書院、本屋、文庫倉庫、純穴作の庭園がほぼそのまま残されている。
また、彦根藩主井伊直弼から拝領した多くの武具や調度品も合わせ展示されている。
この地から壮大な夢を描いて北海道に飛来した喜兵衛の足跡が、展示された松前屏風や長者丸の模型に見る事が出来る。

この屋敷は天保飢饉に見舞われていた天保7年(1836)に二代目四郎兵衛が窮民救済の一策として建築されたものである。
近江商人の多くが、飢饉や不況の際に寺院の建立や住宅の新築、改築などを行い、地域経済活動の活性化と人々の生活援助を行なうことが多く見られ、「飢餓普請」とか「お助け普請」等といわれた。
この藤野邸の建築もまさにこうした類のものであり、千樹寺の再建も同時期である。これを藤野家の屋号又十にちなんで「又十の飢餓普請」と呼んだ。

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 近江商人って、商売を通して、世のため、人のため、役に立つ事業を起こしたり、又十藤野家のように窮民救済事業をしたり、すごいですね。