明治三年二月現如上人(大谷光瑩)は北海道開拓の朝命を賜り、北海道巡教の途に上がられた。即ちこの錦絵は上人が七月七日函館上陸後札幌へ往復せられ、新道の切り開き、道場の創立、門末の巡教等の任務を果たされ、八月十九日函館を去らるるまでの有様を十九枚の錦絵に描いて刊行された大変貴重な風俗資料である。明治の初期は未だ写真が普及しておらず、数人の絵師が上人と一緒に道中を旅して描いたものです。広重の東海道五十三次版画は芸術的に優れていることは言うを待たないが、又、幕末の街道風俗資料としても貴重なものと考えらるる。この巡教錦絵は明治開拓当初の札幌・函館間街道風俗資料として、五十三次版画と同様に尊重さるるべきと思う。特に当時の北海道通の第一人者北海道人(松浦武四郎)の和歌が各葉に挿入されている点から見ても、本願寺の北海道開拓や、この錦絵発行に彼が関わっていたことが知られている。
甘泉堂版と東本願寺版と二種がある。
寺島家には十九枚全部そろって保存され、その中から四枚だけコピー(当時はカラーなし)した分が残り、あとの分は紛失、調査中です。
この錦絵の右上に草書体で書かれている松浦武四郎の和歌や左上に書かれているこの絵の説明を寺島様が下記のように読み易く書き直してくださいました。今回は保存中の4枚のうち1枚をご紹介させて頂きますが、残りの3枚は後日ご紹介させて頂きます(管理人)
一曜斎國輝画(絵の右下に書かれている)
荒浪の 巖手(いわおて)つたい 一すちの
つたかつらこそ いのち成けれ
あら膽(きも)を 浪にとられて またも世に
立ちかへるとは おもはさりけり
餘市小樽之
間求捷径(しょうけい)到 (参)捷径の意味:近道
海岸難處
余市と小樽の間を近道しようと思ったら
海岸の危険なところであった
コメント
コメント一覧 (1件)
1:松浦武四郎の草書体の和歌を楷書体に直された寺島様の 読解力に驚嘆です。
2:祝津の海岸から見る余市方面の切り立った断崖は正に
この絵のようですね。