栖原家と北方領土

戦前まで日本領土であった樺太並びに択捉島について詳しいことは学校でも習わないし、教科書にも載ってなく、政府は北方領土の択捉までは日本固有の領土あるというのみで、どういう歴史的経緯で日本の領土なのかを、はっきりと国民に説明する必要があると思いますが、ロシア国に対する配慮なのか、その説明がなされませんので、樺太(北蝦夷)と択捉島の開拓に力を尽くした栖原一族の子孫として、小樽には直接関係ございませんが、北海道の歴史、しいては未解決のロシアとの北方領土問題について皆様の一考の糧にでもなればと思い筆を進めてゆきたいと思います。

栖原家には、庄兵衛家と角兵衛家がありますが、私の母は庄兵衛家の四女です。

terashima-2014-12-28

本論に入る前に栖原家の概略を説明いたします。

栖原家の祖先は、源義家の後裔である。義家十五代の孫、小柴掃部介(かもんのすけ)信弘の代になり、攝津国川辺郡北村郷(現在の伊丹市北村)を領有し郷名北村を氏とした。その後天文五年、信弘の子信茂の幼時、延暦寺衆徒による日蓮宗衆徒襲撃焼討の変にあい、信茂は乱を避け高野山に遁れた。この乱も平定するに及び有田郡吉川村に移住して農を営んだ。

信茂の孫茂俊の代、元和五年同郡栖原村に転じ、初代北村角兵衛を名乗り、立身出世の途は漁業のほかにないと栄達の門を海に求め、房総(千葉県)、奥州(東北)に漁場を開拓した。

これより栖原氏の本家は代々角兵衛を通称とした。
二代俊興は元禄年間江戸に出で、鉄砲洲に薪炭問屋を、また深川に貯木場を作り(現在の木場町)材木問屋を開いた。

三代茂延は祖父の遺志を継ぎ、房総で漁業を営んだが、その後これを地元漁民に任せ、江戸の本店を、南部大畑に支店を設け、史上有名な飛騨屋久兵衛と結んで、下北の南部ヒバ、蝦夷地の松材を伐採し、盛んに江戸および上方に手広く売り捌いた。

五代茂勝のとき、事業の拡大を図るため、蝦夷地に渡り松前小松前町に支店を開き、支配人橋本三郎兵衛を常駐させ、蝦夷地の海産物を内地に輸送すると共に、木材その他の産物を取扱い大いに交易をおこなった。当時松前藩では土着の民でなければ漁業を許さなかったので、支配人橋本三郎兵衛に栖原氏を名乗らせ仮に養子相続とし、支店の名も栖原屋と称し、以後支配人交代ある毎にこれに倣(なら)った。

六代茂則に到り、家業は益々盛んとなり、1786年(天明6年)から1789年(寛政元年)にかけて、松前藩より西蝦夷から東蝦夷地にかけての漁場を順次請け負いました。また探検家として有名な近藤重蔵の蝦夷地視察報告に基づき、ロシア人の出没に対応するため、東蝦夷地を幕府直轄とした1799年(寛政11年)には、幕府から蝦夷地運送方を命じられ、北蝦夷(樺太)の久春古丹(大泊)と宗谷間に五百石積みの堅牢な帆船二艘を備えて、軍需物資の輸送並びに定期航行をはじめ、樺太、北海道の連絡交通の便を計った。明治八年(1875年)まで継続するなど、蝦夷地の運輸業を独占するまでになりました。

七代信義は、1806年(文化3年)石狩13場所のうち5場所請負、1809年(文化6年)には、村山喜右衛門、伊達林右衛門と共に北蝦夷(樺太)全島の漁場を預かることになったが、村山氏辞退したので、栖原・伊達の両家で経営することになった。さらに1815年(文化12年)に高田屋嘉兵衛、伊達林右衛門、亀屋武兵衛と共に根室漁場請負いとなり、蝦夷一円にその活動範囲を拡大しました。

1841年(天保12年)八代茂信は伊達氏と共に東蝦夷地の択捉島の漁場請負を許され、本格的に北方領土へ進出しました。更に松前と青森三厩間の連絡には栄徳丸、藤野家の長者丸の二隻を備え、北海道と本州の連絡交通の便を計った。また、この間篤志家として、貧しい人々の救済や、松前城築城に貢献するなど、多くの実績を残しました。1854年(安政元年)、日本とロシアの間に択捉島とウルップ島の間を国境とし、北蝦夷地(樺太)を両国雑居地と定める日露通好条約が下田で結ばれ、北蝦夷地に幕府の北会所が設けられるや、栖原家は元締役となりました。

九代茂寿は松前藩より沖ノ口収納取扱方(税務を取り扱う所)を命じられ、1857年(安政4年)には、箱館奉行所から新銭引替(銀行業務のようなもの)を引きうけて、江戸日本橋に支店を置き、蝦夷地の物産販売、照介を兼業しました。

十代寧幹(やすもと)は、安政年間に於ける金融経済の中枢的人物として、大いに活躍した。町方別廉御金取扱方、外国銀銭取扱方、箱館大町海岸築出御金取扱方、銅銭引換所取扱方を命ぜられたほか、五稜郭及び箱館台場築造に要する、一切の費用取扱方をも北帳場の名で命ぜられ、文久二年には幕府産物会所御用金取扱方となった。これは、日本銀行と普通銀行とを兼営する様なもので、栖原家が如何に絶大なる信用を有し、当時の財界に重きをなしたかを雄弁に物語っている。

<次回に続く>

 

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  • 本文に出てくる北帳場は寺島様から頂いた現行では「北帳場」という字に前に〇の中に北という字が入った屋号がついていますが、本ブログではプログラム上表現できませんので、北帳場という表現のみにさせて頂きました。