栖原家が樺太に進出したのは、七代角兵衛信義の代である。1805(文化2年)信義は函館付近の上山村の未開発地開墾を願い出て、農民を募集して田畑を開墾し、杉苗を植林して、地名を栖原と称し、上山村の枝郷とした。文化三年には石狩十三場所のうちトクヒラ・ハッシャフ・下ユウバリ・シママップ・上ツイシカリの五場所の請負を命ぜられ、文化6年村山喜右衛門・伊達林右衛門とともに、北蝦夷地(樺太)全島の漁場も預かることになったが、村山氏が辞退したので、栖原・伊達両家で経営することになった。当時、ロシア人の侵入が頻繁になり、文化三年にはロシア船が久春古丹(大泊)に侵入し、家屋・倉庫・弁天社を焼き払い、番人数名を捕えて去ったことがあり、翌四年にはさらに択捉に来寇し、また樺太に来たり、オフイトマリ及びルウタカの番屋を焼き、続いて利尻を侵して去る。
文化五年、幕府は会津藩に命じ、宗谷・樺太の守備にあたらせ、秋に至り兵を引揚げ、その状態を以って樺太の経営は一時中止した。その後進んで樺太経営の任に当たる者なし、此際に当り信義命を受け、奮って之に従事し、伊達家と共同して商社を福山に置き、北帳場と称した。巨資を投じて支配人・通詞及び数多の雇人を送り再び家屋・倉庫を建築し、アイヌを撫育し、まさに廃絶しようとした樺太の漁場を維持して益々発達させたのである。
幕府の警備・軍費・軍需品の輸送・金銭為替はもちろん箱館台場・五稜郭建造に要する費用、諸役人の給料支払などは、すべて北帳場で取り扱ったものであった。当時の栖原家の漁場はアニワ湾一帯はもちろん、西海岸に於いては「ノタサン」の北「ハイカラムシ」に至り、漁場の総数四十八か所に及び、その大部分は信義の新たに開拓したものである。
運上家は久春古舟に置き、全部の漁場を統括し、尚西富内に大番屋を置いて西海岸の漁場を管理した。その他、白主に山靼(さんたん)交易会所を置き、ヒシヤサン他六か所に通行屋(即ち旅宿所)を設け、宗谷との連絡には先代の時と同じく堅牢な帆船二隻を以って交通の便を計る。
【信義が経営した漁場名】
○アニワ湾漁場(西方より順次記載)
コンブイ/リヤトマリ/オーホエ/フルエ/ウルウ/ホロナイボ/ケネウシ/ヘフレナイ/リラ/ルウタカ/カムイシヤハ/フラオンナイ/シュシュヤ/チナイボ/トマリオンナイ/ウシュンナイ/ウンラ/ハツコトマリ/クシュンコタン(運上屋勤番所等の所在地で今の大泊町久春古舟なり)/ホロアントマリ/ヲフイトマリ/ユウトタンナイ/エヌシコマナイ/チベチャニ/ホフラニ/ナエトム/トウフツ/シュマカムイ/ナエヲンナイ/ノシケタナイ/ヤハンベツ/オマンベツ
○西海岸漁場(南方より順次記載)
ウシニコロ/トコンボ/トーウシ/ヲコウ/アサンナイ/タラントマリ/ヒロチ/エンルモコマフ(この地は後に西富内(とんない)という今の真岡町なり)/ウエントマリ/ホロトマリ/ハツトマリ/ラクマカ/トマリホ/トーコタン/ノタサン/ハイカラムシ
「北海道の歴史と文化」(北海道史研究協議会編)
史料紹介 樺太南部を中心とした栖原家家譜(秋田俊一)
続く
コメント
コメント一覧 (1件)
マッサンでも、会津藩出身の人が登場して、面白いですね。
領土未確定の時代、徳川幕府も参勤交代など無駄なことをするぐらいなら、北方領土の開拓に諸大名の力を向ければよかったのに…..