小樽会 春のイベントー坂本を訪ねて

今回は比叡坂本駅スタートの日吉大社桜散策のイベントでした。今年の桜は通年より早く咲き終わり、4月9日では葉桜鑑賞と思っていたのですが、かなり花も楽しめました。
私は長く関西に住みながら、この坂本の町や日吉大社を訪れたことがありませんでした。良い機会なので、この地の歴史をインターネットなどによってひも解き学び、写真も添えて以下紹介してみます。

日吉大社はもと「日吉社(ひえしゃ)」と呼ばれ、比叡山:日枝山(ひえのやま、おおやま)の地主神「おおやまくいのかみ」を祀り、全国に3800ある日吉、日枝、山王神社の総本社で今は山王総本宮日吉大社と呼ばれます。

日吉大社入口鳥居

山王鳥居下

そのもとは、後ろにそびえる八王子山頂にある牛尾神社、三宮神社の里宮として下の平地に地主神を祀る東本宮や樹下神社がつくられ、その後、天智天皇の大津京遷都(668年)に伴い、その鎮護として西本宮が大己貴神(おおくにぬしのかみ)を祀って建てられました。

(写真上:八王子山、写真下:西本宮楼門)

その後788年に最澄が比叡山に延暦寺根本中堂を建立し天台宗を広めるにあたり、比叡山地主神を祀る日吉社を守護神としますが、ここは京都の鬼門にあたり、その鬼門除けとしても崇拝されるようになりました。
延暦寺天台宗が勢力を増すにつれ、日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は「山王権現」と呼ばれるようになり、これを天台宗と結び付けた「山王神道」が説かれるようになります。そして平安時代中頃八王子山には神宮寺が建てられ、日吉社参道には多くの延暦寺僧侶の里坊が建てられようになりました。
一方、奈良では東大寺と興福寺の争いの結果興福寺僧侶が京に上り強訴するということが、1000年頃から頻発しはじめますが、ここでも延暦寺と園城寺(三井寺)とが山門衆と寺門衆として事あるごとに争い、その結果を京に強訴するみたいなことが起こります。或いは1095年に延暦寺は僧を殺した美濃守の流罪を関白に求め、日吉社の神輿を担ぎ出し朝廷に迫ったりします。神輿を担いで朝廷に要求を通すという強訴は、平安時代室町時代を通じ40回も行われました。現在も山王祭では神輿が登場し、八王子山380mに神輿を担ぎ上げ又降ろしますが、強訴では800mの延暦寺まで担ぎ上げ雲母坂を下って市街へと降りるわけで、大変な苦行であったと思われます。強訴で壊れた神輿は打ち捨てて新たな神輿を造らせて新品にするという事もあったようです。

八王子山へ上る道:神輿を担いで上がる

 

 

 

 

 

 

 

 

14世紀室町時代には山王神道は益々盛んになり、この摂社末社は200を越えて立ち並んでいたといいます。しかし16世紀戦乱では僧兵の力は侮りがたいものとなり、1571年9月12日織田信長は対立する園城寺に本拠地を置き、延暦寺や坂本の里坊や日吉社を焼き払い、後を光秀らに任せ京へと立ちました。光秀はこの地域を支配し延暦寺の監視や琵琶湖の制海をするため坂本城を築きました。山門派や寺門派と異なる西教寺は光秀の助けもあり早めに再興されて、光秀の供養塔や一族の墓が収められています。その後、延暦寺や日吉社の再建は秀吉により僧兵を置かぬことを条件に許されました。

左下に西教寺への案内:日吉馬場通り

江戸時代になり、家康が死去するとき、幕府の僧侶として金地院崇伝と南光坊天海がいました。崇伝は南禅寺の僧でしたが、秀頼を倒す口実「国家安康、君臣豊楽」を鐘楼銘文から読み出す等功積がありました。家康の死後その神号を何にするかというとき、崇伝は久能山は吉田神道で葬ったので「大明神」を主張しましたが、天海は比叡山天台宗徒であったことから「それでは秀吉の豊国大明神と同じ運命をたどる。山王権現に基り東照大権現とすべきだ」として、これが採用されました。1623年にはこの地に日吉東照宮も建設されて1634年日光東照宮改造の雛型となりました。

権現馬場通りより。正面には近江富士、後方には日吉東照宮

天海はまた1615年、京都法勝寺建物を天皇より下賜され、この地に滋賀院門跡を延暦寺天台座主の里坊として建立しました。その豪華さから滋賀院御殿と呼ばれました。(寺としての法勝寺は西教寺に合併されました。)

滋賀院御殿

このように坂本の地は再び延暦寺の下で栄えますが、日吉社はこれを嫌い1680年代神仏習合や山王神道を廃しようとしました。しかし延暦寺との論争に敗れてこれを守ることを厳命されました。明治元年神仏分離令がでると、日吉社は率先して仏教色を一掃して日吉大社となりますが、延暦寺に対し廃仏毀釈を行い、これが日本中に広まることになってしまいました。
この坂本の地を特徴付ける景観のもう一つの大きな点は、里坊や滋賀院に巡らされれている穴太衆(あのうしゅう=あなふしゅう)の石垣や石畳、橋、水路といったものです。寺院や里坊から城郭の石垣まで、その巧みな技は美しさと強さを兼ね備えたものとして、世界に知られるところとなっています。現在は粟田建設などがその技を継いでおり、国内の城郭等の修理保全の他、2010年にはダラスのロレックス社ビル、新名神高速道路の甲南町から水口町の自然公園内等にも石垣を構築しているとのことです。


こうして坂本市は人口1万人の小さな市ですが、多くの歴史遺産を有し、結果国宝2棟、重要文化財17棟、名勝庭園10ヶ所などを石垣で繋ぐ稀有な町でした。

 

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