令和3年 関西小樽会 秋のイベント「離宮八幡宮とアサヒビール大山崎山荘美術館」のお知らせ

開催概要

期日:2021年11月10日(水曜)

イベント報告

11月10日、前日の天気予報とは逆の晴天となり、絶好の行楽日和となった中17名がJR山崎駅に集合しました。コロナの感染拡大の宣言は解除された後でのイベントでしたが、イベント計画段階ではコロナ禍の真っただ中にあり、離宮八幡宮を訪れた後の昼食場所も仮の場所を決めただけで各自自由に取ることになっていました。

昼食後、再度山崎山荘美術館の送迎バスの出発地の山崎駅に集合しました。この頃から天候が怪しくなり、美術館に到着した時には雨が降り出しました。
山荘というだけに、美術館の外は坂の上り下りを挟んで庭園があり、いつもならその正面に石清水八幡宮のある男山、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる風景が見られます。しかし残念ながらこの日は雨が益々激しくなり、美術館の外の散策すら躊躇する状態でした。

これらの眺望は美術館の中のテラスからも眺められるのですが、雨と共に気温が下がり多くの人が室内へと移動しました。このような状況のため、早々に切り上げる人が多く、最後はイベント後の「ミニ宴会」を期待する7名だけとなりました。

美術館へはこのトンネルをくぐって行きます

美術館入り口です。雨で傘をさしています。

最後に残ったメンバーはカメラマンの筆者を入れて7名でした。

山荘の庭園も人の影はありません。

訪問先概要

離宮八幡宮

859年清和天皇の勅により石清水八幡宮として建立。しかし翌年には男山の石清水八幡宮に分祀された。嵯峨天皇の離宮の地であったので「離宮八幡宮」と呼ばれるようになった。当時京都の照明は荏胡麻油によるもので、当神官が精油機械を作り、その取引の中心地となった。淀川沿いに運ばれた荏胡麻はここで油製品となり、油座が設けられ専売取引され繁栄した。幕末禁門の変では当地に長州藩詰所があったため火災にあい多くを焼失した。

大山崎山荘美術館

当館は、関西の実業家・加賀正太郎が大正から昭和初期(1910-30年代)建設した「大山崎山荘」を創建当時の姿に修復し、安藤忠雄設計の円筒形新棟を地下に「地中の宝石箱」として建設し、1996年4月に開館されたものです。更に2012年蘭栽培用ガラス温室の在った場所に同氏による箱型新棟「夢の箱」が建築されたものです。

若き日に欧州へ遊学した加賀は、イギリスのウィンザー城を訪れた際に眺めたテムズ川の流れの記憶をもとに、木津、宇治、桂の三川が合流する大山崎に土地を求め、山荘を建設しました。本館2階のテラスからは、当時そのままに三川が流れる壮大な風景を眼下にすることができます。正太郎没後、加賀家の手を離れた大山崎山荘は、1990年頃傷みが激しく荒廃寸前となり、貴重な建築物と周囲の自然の保護保存を求める声が多くあがっていました。

加賀家はニッカウヰスキーの設立にも参画しており、アサヒビールの初代社長山本爲三郎と深い親交があったため、要請を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として再生しました。

山荘の居室に展示される美術品の多くは山本為三郎が支援した民藝運動の作品が多く、河井、濱田、リーチ、富本憲吉の陶磁器や、柳宗悦らが招来した東西の古作工芸の佳品の数々が並びます。また、「地中の宝石箱」にはモネの睡蓮作品、更に「夢の箱」ではルオーやモディリアーニ、クレーやジャコメッティの作品等が展示されることが多いです。

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