2022年春のイベント報告

4月1日、今年の春のイベントはクルーズで、「蘇れ!!淀川の舟運」ということで、天満の八軒家浜船着場から出発して大川(旧淀川)沿いの桜を楽しみ、毛馬閘門を通って淀川に入り、枚方船着場までの舟運旅行をして、最後枚方の鍵屋資料館で特製弁当を頂き、資料館で江戸時代の枚方宿を勉強しました。
なお、淀川ですが、明治40年淀川放水路(今の十三大橋がかかっているところ)というのが出来て、これが淀川本流となりましたが、それ以前はこの大川(又は天満川):都島毛馬から中之島の間、次の堂島川・土佐堀川:中之島から野田あたりまで、次の安治川:野田から天保山を経て大阪湾へ出る、この流れが淀川でした。今回はその中の天満から上流の大川、更に本流の淀川を舟で辿りました。舟は昔の30石舟サイズのようです。
以下、写真でその行程での説明等を交えながら辿ってみたいと思います。

先ずは天満橋駅に近い八軒家浜船着場です。ここからは西には中之島や天神橋方面の桜(1)、正面には南天満公園の見事な桜(2)が望めました。

(1)八軒家浜船着場から天神橋方面
(2)八軒家浜船着場から正面の南天満公園

進行方向の天満橋方面も南天満公園が続き、その桜も望めます(3)。舟に乗ると、各座席には防寒コートが置いてあり、「本日は風が進行方向から激しく吹いてくるので、キッチリ着て下さい」とアナウンスがあり皆着用(4)して出発です。NHKの取材もあり、そのクルーも乗船しました。その放送は数年後になるようなことでした。

(3)八軒屋浜船着場から天満橋方面
(4)乗船・防寒コートを着て出発

天満橋をくぐって川崎渡し跡に続く桜も(5)実に見事で、ガイドさんの説明では、これらの桜の維持には様々な方の努力があってこうなったということでした。川崎橋をくぐると、右手には藤田邸庭園に繋がる桜が見えてきます(6)。

(5)天満橋の次は人と自転車専用の川崎橋
(6)藤田邸庭園界隈が広がります

左手には造幣局に連なる桜が見えてきます(7)。ただ、造幣局の八重桜は未だ数週間先となります。造幣局の北端では日本最大のアーチ橋だった桜宮橋をくぐります(8)。

(7)造幣局、更にOAP一帯
(8)桜宮橋の下を通過

桜宮界隈はその名のとおり、桜が一杯です(9)。その対岸になる源八橋界隈の桜も、川面に近いところまで枝が垂れさがり、見事な桜となっています。(10)

(9)桜宮界隈
(10)源八橋界隈

源八橋を越えると直ぐ大阪環状線鉄橋ですが、この西端あたりの桜は美しいです。(11)そして、その正面からの桜は川面に届かんばかりです。(12)

(11)環状線桜ノ宮からのJR鉄橋
(12)川面まで届こうかという桜

大阪環状線を越えると毛馬桜之宮公園ですが、付近は浚渫砂の処理場となっています。淀川には多くの河川が繋がっていてその砂が流入してくるため、浚渫が必要で、その砂を鉄筋コンクリート用原料として再利用すべく処理しているとのことでした。上質の砂だそうです(13)。都島橋をくぐると都島本通りの桜の並木が広がります(14)。

(13)浚渫砂処理場
(14)都島橋から飛翔橋間の桜

そして飛翔橋(15)が見えてきます。これは西岸の淀川リバーサイドタウンから東岸の都島駅へ通うための歩行者専用橋です。飛翔橋をくぐると、大川も終点に近づき毛馬橋が見えてきます(16)。

(15)飛翔橋界隈
(16)船着場(対岸は拘置所)右前方に毛馬橋

毛馬橋をくぐると毛馬の閘門(17)となります。これは水位の低い大川にいる舟が、水位の高い淀川に入るため(その反対の役目もありますが)の装置で、これと同じものはパナマ運河などにもあります。

(17)毛馬の閘門

先ず、閘室へ入船(18)、次に後の閘門扉を閉めて、前側の扉を少しづつ上げて水を入れて閘室の水位を上げる(19)、そして上流の淀川水位と同じ水位になったら前川閘門扉を全部上げて(20)舟が閘室から出て行きます。この日は新月なので大潮の日でした。大川の水位は海面水位に近いためこの日水位は高かったわけですが、淀川の水位までには更に1m以上必要だったように見えます。壁に垂れてる鎖の位置と水位を注目すると差が分かります。

(18)閘門入場
(19)後門閉、前門下部開で水位が上昇してゆきます
(20)淀川と同水位となり出発

毛馬の閘門を出ると、直ぐ左に淀川大堰(21)があります。六門あり、常時は両端の2門の開度調節で、ここから上流の水位が調節されているそうです。水位は、この淀川の水を利用する諸施設が困らないような高さに維持する一方、洪水の時などは他の水門も開けて、上流の水位が高くなり過ぎないようにもしています。また、この水門設置により下層の海水が上流に登るのを制限しており、水質の保全にも役立っています。ここから淀川本流を上流に向かいます(22)が、波の大きさが今までとは全然違います。

(21)淀川に入ると左に淀川大堰
(22)淀川を上流に向かって出発!

直ぐに現われるのが淀川水管橋(23)。市最大の柴島浄水場から淀川を越えた市東部域への上水配管のための橋です。昭和60年完成しました。淀川は各地区からの雨水や排水を海に流しますが、それらを再利用しながら近畿一帯1100万人への水道用水、農業用水、工業用水を供給して人々の生活を支え、最後はその水の排水も受入れます。
次が赤川鉄橋(24)で、以前は列車と人が渡る橋でしたが、現在は「おおさか東線」ためだけの橋です。

(23)淀川水管橋
(24)赤川鉄橋

次は菅原城北大橋(25)。東淀川から旭区城北筋へ繋がる橋で普通車通行料が100円だったことから100円橋とも呼ばれています。この付近の河川敷(26)にはワンド(湾処)が沢山あります。ワンドは、明治期蒸気船を走らせるため淀川の水深維持を水流で形成させるために、岸から川に向かって水制という構造物を設置しましたが、そこに土砂が溜まって池が出来て、植生が繁茂し、淡水魚が生息するようになり、独自の生態系も観察されるようになりました。
現在ここに天然記念物の稀少種イタセンバラが飼育されていて、地域ごとに保全活動がなされています。(イタセンバラは昔は淀川に普通にいた魚ですが、外来種の繁殖により一旦は絶滅したのではないかと思われていました)

(25)菅原城北大橋又は100円橋
(26)湾処(ワンド)のあたり?

豊里大橋(27)は内環状線建設に伴い昭和45年に完成しました。当時日本最長の中央スパン215mを有する斜張橋です。この少し先には大道取水口があり、ここから取水された水は猪名川浄水場へ水道水原水として送られています。次の鳥飼大橋(28)は近畿自動車道、中央環状線、モノレール上下線、水道管ガス管と、都市の動脈を支える幹線橋です。この鳥飼大橋の少し手前から、神崎川に水を流す樋門が設けられ、神崎川が始まっています。

(27)豊里大橋とNTT鉄塔
(28)鳥飼大橋下通過

次は鳥飼仁和寺大橋(29)です。八尾茨木線の有料道路の一部です。この前後の堤には、船着場が設けられています。江戸時代には大阪と京都(伏見)を結び30石舟が往き来していました。150㎏/石とすると、30石は4.5t。その舟の自重や人や帆や小屋等を4.5tとして、合計9t。吃水(舟の水に漬かってる深さ)が30cmなら9/0.3=30m2 の面積の舟となり、例えば2m×15mのような感じになり、これならかなり浅いところも運行できます。その後明治以降蒸気船が導入されますが、必要吃水が深くなり、水深の維持のための調査や浚渫、水制工などが必要となりました。また一方、陸路も整備され、鉄道や自動車の発達でこれらの船は使用されなくなってきました。しかし、平成7年の兵庫地震、平成30年の大阪北部地震など起きた時は徒歩しか交通がない状態となりました。この反省から舟運による災害対策もあるということで緊急用船着場や河川敷道路の整備が近年なされています。緊急船着場は淀川大堰下流に2カ所、上流の枚方まで7カ所が今設置されており、春と秋には舟を実際に運行しています。このクルーズもその一環となっています。
淀川の左岸には秀吉の文禄堤(30)が見えています。
淀川には琵琶湖、宇治川、木津川、桂川、淀川下流、猪名川の流域に降る雨が流れ込み、その流域面積は8200m2となります。秀吉の頃には大和川流域も繋がっていました。なので、大雨が降れば直ぐ下流のどこかで氾濫が起き、交通網や農業生産に影響がでました。この淀川の右岸には西国街道、左岸には京街道、という重要な街道があり、特に左岸側には広大な田畑が広がり、この都と商都の人々への食料供給地でもありました。ここを保護するため、秀吉は得意の土木工事を命じ短期間でこの文禄堤を構築しました。京街道はこの文禄堤沿いに出来た道で、大阪高麗橋から守口に出て、ここから文禄堤が始まり、枚方、淀、伏見と続きました。

(29)鳥飼仁和寺大橋
(30)秀吉の文禄堤

枚方に近くなってきましたが、スーパー堤防(31)あたりが見えてきます。昭和62年から開始されたもので、今までの堤防から市街地側へ堤防高さの30倍を目標に拡幅するもので、洪水被害防止確率を高めたものです。水利用を高めるのに河川水位は高めに維持されますが、安全でなければなりません。写真でも見れるように、淀川本流に入ってからは舟から、街の家並みはほとんど見ることはできません。これは水位が高いためです。尚、スーパー堤防では堤防上への建屋の建築も進めることにもなっています。そして枚方船着場へ到着(32)です。この白い塔みたいなのは河川敷に生える葦の芽を模していて、中には計測器が入っていて「水位観測所」とのことでした。

(31)スーパー堤防
(32)枚方到着!!

江戸時代、京都と大阪の間の交通は、下りは淀川を舟で行きますが、上りは舟が曳舟となり費用も高く時間もかかります。そこで、普通の人は徒歩となり、枚方宿へ「お泊まり!」となることのようです。枚方を舟で通り過ぎる人には「くらわんか舟」が出て、飲食を提供もしていました。宿には料亭や遊興施設があり、私達も枚方一番であった鍵屋の2階大広間(33)で昼食となりました。この鍵屋は今、枚方市によって運営されていて、一階は当時の生活を知ること出来るような資料館(34)となっていて、昔の雰囲気を楽しめました。    以上

(33)枚方宿鍵屋2階大広間
(34)鍵屋資料館


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