私は小樽市の郊外、長橋小学校に通っておりました。
昭和26、7年、日本も少しづつ戦争の思い出から遠ざかり始めたころでしょうか。それでも、満州や樺太から、着の身着のままの引揚者の方が、病院を改造して作った「引揚者住宅」というものに、たくさん居られた時代です。そしてラジオでは、外地で離ればなれになった方々が、「たずね人」という番組でお互いの消息を求めあっていました。そして又、戦争を知らぬ子供たちが、小学校に入り始めた頃でした。
小樽の運動会は、雪がすっかり消え、五月、桜の花が一斉に咲き始める季節にありました。校庭にも桜の花が、生徒たちを見下ろしていました。それぞれの家庭の暖かい心のこもったお重箱とお酒を持って、一家総出で運動会に集まりました。
それはそれは賑やかで楽しい一日でした。小学校の土手は、ちょうど雛壇のように十段ほどあり、そこも家族で満員でした。よく見える特等席でした。しかも、最上段は函館本線の線路でした。
遠く汽笛が聞こえると、運動会のスピーカーの音は、かき消され、真っ黒い煙を吐いた汽車が、ゴーッと通り過ぎる迄、校庭の競技は音のない映像に見えました。お昼になりますと、一斉にお重箱のふたをパタパタしめて、黒い煙がえるのを待ってました。
そして煙がなくなるとスピーカーの音も蘇り、又、楽しいランチタイムが続きました。その頃はこのように、運動会は地域ぐるみのお祭りでした。
足の遅い私はその日が辛くもあり、又、楽しいランチタイムが大好きでもありました。
でも、今思い出してみると桜とSLってちょっと変わっていて、良かったかもと思うのです。