択捉島は寛政十二年(1800)の新規開発依来、直捌制といって幕府役人が直接経営にあたってきたが、文化七年(1810)これを商人の請負制に改め、択捉航路を開いた功績により高田屋嘉兵衛に請け負わせている。嘉兵衛は函館大町に店を置き、蝦夷地定雇船頭、蝦夷地産物売捌(うりさばき)方などとして幕府の蝦夷地政策に食い込み、一躍豪商にのし上がった人物である。
だが文化八年(1811)オホーツク海沿岸を測量調査中のロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニン幽囚事件に巻き込まれ、翌九年、観世丸で択捉島から函館に戻る途中、国後沖でロシア船に捕まってしまった。嘉兵衛の尽力によって翌年ゴローニンが釈放されたのは有名な話である。嘉兵衛は文政元年(1818)健康を害し、郷里の淡路島に帰っていたが、文政五年に隠居し、弟の金兵衛に跡目を継がせた。
その金兵衛の雇船が、天保二年(1831)シャマニ沖でロシア船と出会った際の合図のやりとりが、密貿易をしたとの疑いをもたれ、翌年金兵衛及び船頭、表役の三人が入牢となり取り調べを受けた。
当時、高田屋は択捉、根室、幌泉の三場所を請け負っていたが、事件が落着するまで、復領した松前藩の直支配とし、林七郎兵衛、浜田屋兵四郎を択捉島差配方函館用達に命じている。取り調べによって密貿易の事実は認められなかったものの、ロシアとの幟合わせの密約自体が、鎖国破りの大罪とされ、天保四年倉庫・持ち船等総てを没収され、函館・蝦夷地から撤退せざるをえなくなった。
高田屋金兵衛一件が決着したため、天保四年六月、林七郎兵衛・浜田屋兵四郎による択捉差配が免じられた。そして、この年より七年間、林七郎兵衛と共に同じ函館の中村屋新三郎、及び松前の関東屋喜四郎の三人の名前で、択捉場所と幌泉場所を合わせて請負っている。両場所で五百両の運上金であった。なお、根室場所は藤野喜兵衛の請負となった。
続く
コメント
コメント一覧 (2件)
藤野喜兵衛は近江商人又十藤野家の初代。
2013.9.14UP「寺島伸二 北陸の北前船主を育てた豊郷町の又十藤野家」参照
上記コメントで藤野家の事を記しましたが、寺島様の本ブログは藤野家の事を述べ述べようとしているのではなく、これから登場する栖原家と択捉がテーマです。