私は元旦が誕生日で85才になりました。これからは関西小樽会と関西潮陵会の方々や地域の方々との触れ合いを大切にしながらゆっくり下山をして行きたいものと願っています。
記念メダル
4月30日には天皇陛下が退位されます。昭和8年12月23日に皇太子殿下がお生まれになりました。国中が皇嗣誕生を盛大に慶祝したことが想像されます。この時期一定の期間内に生まれた男の子に「皇太子殿下誕生記念メダル」が贈られました。皇太子誕生から9日後に生まれた私も記念メダルをいただきました。私が物心ついてから親からメダルを見せられました。それは直径6センチ程、厚さ5ミリ程の銅製のメダルで表面には二重橋と宮城の上に鯉のぼりがはためいている風景が彫られているもので、立派なメダルケースに入っていました。以後大切に保管していました。
昭和16年12月8日太平洋戦争が始まりました。やがて戦況が厳しくなり、食糧や物資の統制が強化されました。「金属供出令」が出され、各家庭も金物類を供出させられました。習字の時に使う文鎮は陶器製に、蓄音機の針は竹製になりました。緑国民学校5年生の時、習字の時間に私は陶器よりも銅の方が安定感があるし皆に見せびらかしたい気持ちもあって、この記念メダルを文鎮として使っていました。
担任の武田武司先生がこれを見つけて、「早川、なんだこれは銅ではないか、戦車や大砲の原料だ、すぐに供出しなさい!」と叱られました。私は自分がそのことに気付かなかったことを恥じ、小国民の一人として供出するのは当然のことと思い、次の休み時間に運動場に設置してある「金属回収箱」に入れました。
終戦後、惜しいことをしたという気持ちもありましたが、先の戦争では多くの日本人が尊い生命や財産を失ったことを思い、メダルのことはすぐに忘れてしまいました。今でもお国のために当然と思ってしたことと納得しています。
潮陵高校と桜陽高校
昭和20年8月15日終戦となり、米国(GHQ)の占領統治下の日本は荒廃の中から復興と民主化を急ピッチで進めていました。そのような中で私は昭和21年4月小樽市立中学校に入学しました。以後中学・高校の6年間を通じGHQ民政局の指導の下6・3・3・4の新学制、教育委員会、PTA、男女共学制など次々と採用されました。そのため私は小樽市立中学→新制長橋中学→小樽高校→小樽潮陵高校と校名は4度(共学制により桜陽高校に移った元市中生は5度)変わりました。
市立中学は小樽の富豪板谷宮吉さんが長橋の土地と資金を、次いで早川両三が職員住宅敷地を小樽市に提供して大正14年(1925)に設立されました。柏の木に囲まれた小高い丘の上に建つ美しい校舎、屋内・外の運動場、講堂、水泳プール、テニスコート、温室などを備え立派な環境でした。広島高等師範学校出身の校長を中心に優秀な教諭陣を揃え、将来は旧制高校を設立して東京高校(旧制)のように中高一貫校(旧制)の設立を目論んでいたと云われました。大正末期―昭和初期は小樽の全盛期と思われ、多くの経済人や文化人が小樽に集まっていて旧制高校設立の要望が高まったことと思います。当時の小樽の強い経済力と小樽人の心意気を感じます。市中は家から通学に1時間を要しましたが、私は英語、漢文、東洋史、代数、幾何、物理など初めての科目に戸惑いながらも小学校と違って勉強すればそれだけ良い結果が出ることを知り、臨時試験や本試験など懸命に勉強しました。しかし2学年になると市中は新制長橋中学となり、先生方も教科内容もがらりと変わりました。男女ほぼ半数の新中学生が入学してきました。市立高女の宮内校長が長中の校長に就任し、英語は市立高女から来られた山中、宮崎(後・桜陽高校)両先生に教わりました。市中生は中卒後全員小樽高校に入学できることが決まっていましたので、入試準備の必要がなく、お陰で私は文芸部(部長は早大英文科出の高岡先生)に入り物書きや詩作の真似事をしたり、河原崎長十郎率いる劇団前進座の「ヴェニスの商人」を観劇したり、園芸飼育部(部長中野植物園の中野先生)に入り温室で植物を育てたり、オタモイ海岸でイソギンチャクや小魚を採ったり、市立高女から来られた女性の音楽教師(上野の東京音楽学校出身、お名前を忘れました)に楽譜の読み方や「コールユーブンゲン」を使って合唱を教わり文化祭でドイツ民謡を歌ったり、宮崎先生に英語リーディングの指導を受け、市立図書館2F講堂での市内中学生英語リーディング大会(審査員は小樽高商の小林象三教授)に長中代表として参加したり、夏は草野球、冬はスキーを存分に楽しみ、卒業式では3年間皆勤賞をいただき、充実した中学生活を送ることが出来ました。
補記:市中1年1組の同級に西信博君(花園町の西病院創設者)がいました、彼は英・数は勿論、国語、漢文、東洋史など何でも先生の質問にすらすら答え、私はすごい秀才がいるものだと感心しました。その頃父が脳卒中で倒れて自宅療養中の時石橋病院の石橋猛雄先生に往診に来ていただきました。その時私が市中1年生ですと云うと石橋先生は「そうか、市中には西君がいるだろう、彼の父親(市立静和病院長西信次氏)をよく知っているがすごい秀才だよ、息子も恐らく頭の良い子だろう」と云われました。西信次先生は市中の校医で1度生徒の保健について講演をされました。今でもその時の西先生の表情を覚えています。西君は博学に加え弁舌も爽やかで、校内弁論大会にもよく出場していました。彼は一度「ジュリアス・シーザーの英雄論」について演説をしました。当時私はシーザーの名前さえ知りませんでした。西君は桜陽高校から北大医学部に進み、北大病院精神科に勤務の後花園町に西病院を設立したと聞いています。私が札幌勤務の頃札樽間の電車で西君と一緒の席に座り久しぶりに昔話をしました。また20年ほど前、緑小以来の親友でスキー選手の故斉藤貢君(桜陽高出身)の散骨式が天狗山頂上で行われましたが、その時西君が桜陽高校代表者として参列しました。彼は北大山岳部でも活躍するなど山を愛し、随筆集「山のあなたの空遠く1・2・3」を出版しているようですが、是非読んでみたいと思っています。現西病院院長である息子さんの西信之さんにはお会いしたことがありませんが、Googleで小樽西病院を検索して、西院長の自己紹介を読みました。それによると、潮陵高卒、北大精神医学教室で教育を受け、北大大学院で博士号取得とあります。西さんは親・子・孫の3代にわたり北大で医学を学び、小樽市を中心とした地域医療に多大の貢献をしていることがよく分かりました。
S24年4月長中卒業生のほぼ全員と共に憧れの小樽高校に入学しました。樽中(併置中学)から来ている学友達とも仲良くなり、樽中・樽高の歴史や伝統を教わり、校歌や応援歌を覚え樽高スピリッツが次第に分かってきました。2年生になり校名が潮陵高校と変わりました。しかし間もなく潮陵高と桜陽高が男女共学制を採用するため学区取り決めを準備中との噂が流れました。やがて境界線を妙見川とし東側の男女生徒は潮陵高、西側は桜陽校という噂が流れました。私は潮陵高に残ることを熱望していましたが、わが家は桜陽高の区域であり、前身の庁立高女は母も姉も母校であり、桜陽の方が西信博君や斉藤貢君など多くの長中の友人と一緒になれるので桜陽高も良いかなあ、何れにせよ運命に任せようと覚悟を決めました。ところが蓋を開けてみると、妙見川と緑町第1大通りに挟まれた細長い帯状の地域に住む男子生徒は潮陵高と決まり、私は幸いにも潮陵高に残ることになりました。わが家の向い側に住む潮陵高の友人達は皆桜陽高へ行くことになり、運命の恐ろしさを感じました。2年生の2学期からは新校舎も完成し約半数が桜陽高からの女性徒となり気分一新、新たな環境の下勉学や外語部の活動に励み後半1年半の潮陵生活を終えました。
潮陵、桜陽に分かれた我々はS27年2月25日9時30分よりそれぞれの高校での卒業式に出席し、午後1時から松竹座での潮陵クラブ・桜陽会共催の新入会員歓迎会に招かれました。石橋・小島両会長、斎藤・浜田両校長、安達小樽市長の祝辞に次いで余興に移りました。新会員の他両校卒業の知名士連約300人が出席し先輩・後輩の余興に若き日の感激と歓喜を会場一杯に交錯させました。
時は下って20年程前でしょうか、東京で潮陵・桜陽合同同期会が行われ50名ほどの男女卒業生が参加しました。私も参加しました。お互い高2の時以来の再会を懐かしむ男女も多く、楽しい談笑の中に会は大いに盛り上がりました。長中以来久し振りに会った渡辺供弘君(元北海製缶)は「我々は根っこは同じだから同じ家族のようなものだね」と云い、同じく中の目君(中の目製菓の息子さん)は「家業は兄貴が継いだけど、今でも甘納豆は中の目製菓、かりんとうは中野製菓だよ」と云い、相変わらず茶目っ気振りを発揮していました。参加した女性会員の中にも市立高女→新制旭丘中学→桜陽高校→潮陵高校と男子と同じようなコースを通ってきた方もおり、「潮陵高と桜陽高は一心同体」との思いを強くしました。
コメント
コメント一覧 (7件)
早川さんとはちょうど10学年違いです。早川さんの末弟、尚義君とは緑、東山、緑陵と同じ学校に通いました。彼は早川商店を継がれていましたが、惜しくも50歳代で急死されました。私の家は、早川邸から細い坂道を降りた、妙見川沿いの佐野借家群の一軒でした(今でもその家は残っていますが、さすがに昭和5年?築で、今は常住者はおらず、貸アトリエなどになっています)。あの一帯が潮陵学区だったのですね。私の時は、緑陵学区に変わっていました。
西信博さんの名前が出てきました。信博さんの次弟が信安さん(北大衛生、私の5期先輩)、三弟は信(まこと)君で私の緑陵時代の同級生です。信安さん、信君ともに秀才で、信安さんだけが工学部、他の男兄弟は皆医学部、お嬢さんは薬学部です。信君は山岳部でしたが、教養時代に日高で遭難死されました。
彼との思い出話はたくさんあります。別の機会にどこかに残しておきましょう。早川さん!懐かしい話をありがとうございました。
コメント投稿者の手島さんも書いておられましたが、1950年代から60年代前半の思い出、懐かしく拝読いたしました。
私は戦争が終わった翌年に小学校に入学しましたので、sugarlover さんとは5年ほど後輩です。記事に出てくる皆さんは存じ上げている方が多いです。中でも、西病院の西信博さんの弟さんとは桜陽高校・北大と同期です。高校の同期会でお会いすることもあります。
また、長橋の石橋病院長の石橋猛雄さんの名前が出てきますが、私の家の隣の「おじさん(ご主人)」が石橋病院長の自家用車の運転手をされていました。当時、自家用車は珍しく、車が来るたびに子供たちが集まっていました。
小樽の良き時代の一コマ、ありがとうございました。
たまたまインターネットで拝見しました。母は小樽市出身(昭和17年生 緑陵出身)、父は小樽商大出身です。私も生まれは小樽ではないものの、縁あって入船小学校卒業、東中を2年生まで通い、その後、関西(兵庫)に転校しました。今年53歳となります。
熊谷様
コメントありがとうございます。この際小樽会に入会されませんか?非常にアットホームな会です。新年の懇親会、5月の総会、4月花見、秋のプチ旅行など行事は盛りだくさんです。
早川宏の妹です緑陵出身私は東京小樽会と緑陵同窓会の顧問をしてます。手嶋さん懐かしいです。
尚義君のお姉さんでしたね。時々お宅で遊ばせてもらった時お会いしましたね。懐かしいです。60年以上前に戻っています。
三上陽一様 弊投稿記事につき大変お手数をおかけしました。種々ご配慮ありがとうございます。
益田光信様 弊記事upありがとうございました。ブログご担当を最初に確認すべきでした。
手島肇様 西信博君のご兄弟のことなど機会があれば教えてください。懐かしいですね。
ねこのダン様 西信博君の弟さんと桜陽・北大で同期とは、それに石橋猛雄先生の自家用車の運転手のお話、戦後の復興期ながら当時の小樽の生き生きとした人々の生活振りが思い出されます。父は病から回復後大黒屋デパートの隣のエスカイヤクラブで社交ダンスを楽しんでいたようですが、そこでよく石橋先生にお会いしたと云っていました。