10月5日は69年前進駐軍が小樽港へ入港した記念日です。昭和20年8月15日終戦、8月30日連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、9月2日東京湾に停泊する米国戦艦ミズリー号艦上で日本の降伏文書調印式が執り行われ、第2次世界大戦は公式に終了しました。マッカーサーは直ちにGHQで占領行政の最高司令官として任務に取りかかりました。連合軍の日本各地への進駐が始まり、10月4日函館港に師団兵6,000人が、翌5日小樽港に北海道進駐米軍最高司令官と第77師団8,000人が上陸しました。その日のうちに約半数の兵士はジープ、装甲車、大型トラックなどに分乗して自動小銃を握りながら札樽国道を通って札幌へ進駐しました。
毎年この時期になると小樽へやってきた進駐軍の色々な記憶が甦って来ます。そのことを思い出すままに書いてみます。
当時私は緑小学校の6年生でした。2学期となり学校へ行ってみると先生方も敗戦のショックによる虚脱状態なのか雰囲気ががらりと変わっていました。間もなく校舎が米軍の宿舎として接収されることになり、我々は稲穂小学校に仮住まいすることになりました。小樽の進駐軍は三井物産ビルに本部を設置し、下士官などの宿舎として北海ホテルや越中屋ホテルを接収、他に130か所の公共及び私設の建物を接収しました。すでに道新などに内地各地に来た進駐軍のニュースが報じられていましたが、市役所から進駐軍を迎えるにあたっての注意事項、特に婦女子は日本婦人としての自覚をもってみだりに外人にスキを見せないこと、みだらな服装をしないことなどを記したビラが各家庭に配られました。10月5日の朝早く私は友達数名とともに港の見える花園公園へ行きました。そこで見たのは小樽港の防波堤の沖合に西の方から延々と続く巡洋艦や駆逐艦などの艦船群で、すでに上陸用舟艇が岸壁との間を行き来しているようでした。その日の午後には宿舎の緑小学校へ向かうジープや軍用トラックが家の前を通り過ぎて行きました。母と廰立女学校生の姉はモンペ姿で部屋に閉じこもっていました。翌日には早くも米兵が市内のあちこちに出てきました。我々の不安や懸念に反して規則正しく友好的な軍隊でした。やがて警戒心は解かれ米兵に親しみを感じて片言英語で応対する市民も出てきました。私の周辺でも様々なことが起こりました。
エピソード1、米兵仲良し3人組:緑小学校に滞在する米兵3人が最初は店に陳列してある日本酒を買いに店に入ってきましたが、店の番頭の叔父(父の実弟)がこれは配給品なので売れないと断ったところすぐ納得し、叔父の対応が面白かったのかそのまま店の応接室に座り込み、自分たちの郷里の家族の写真など見せながら自己紹介を始めました。ボス格はサムでニューヨーク出身、陽気な下町っ子のように見受けられました。次はフランクでシカゴ出身、やや年上で好々爺に見受けられました。実家は養鶏業と云っていました。3人目はジム、ルイジアナ州の田舎町出身、温厚そうな若者でした。3人とも軍曹でした。その日は2時間位で帰っていきましたが叔父や母の応対が面白かったのか翌日からも頻繁に3人で店に現れました。12月に入ったころサム一人で店に来ました。叔父に向かって「オイサーン、サム、ヨコハマ」と云って横浜から米国へ帰る帰還者リストを見せてくれました。数日後叔父の自宅でサムの送別会をすることになり私も頼んで参加させてもらいました。叔父の家の茶の間で叔母さんの手料理(と云っても食糧難の時でジャガイモのフライ程度)で大人二人はお酒やビールを飲み始めました。言葉は通じなくともお互いに意気投合して楽しそうでしたが、やがてサムは酒に酔ったのか緊張が解けたのか突如泣き出しました。時間も12時を回っており結局朝まで寝込んでしまいました。横浜へ出発する日には店の前に止めたトラックから降りてきて緊張した顔をして別れの挨拶をして行きました。その時フランクも店にいましがサムが去った後一人で店のソファーに座りホームシックなのか寂しげにしくしく泣いていました。その後緑小学校に残っていた兵士たちも順次本国へ帰国したようで、我々も2月頃には緑小学校に戻り3月の卒業式を迎えることが出来ました。
エピソード2、俄か通訳:早川食料品雑貨店は父が酒販組合に勤務していて昼間は店にいませんでしたので、小柄で愛嬌のある叔父の寺崎さんと母が常時店に出ていました。アメリカ兵が酒を求めて店に来るたびに配給品なので売れないことを説明しなければならず叔父が困っていたところ、ある時近くの車製粉所で働いている押田さんがうちの店の手伝いにも来ていて、突如押田さんが英語ですらすらと説明してくれ皆を驚かせました。押田さんが云うには自分は若い頃箱根のホテルのボーイをしていた、そこには英米人のお客がたくさんいて、自然に英会話を覚えたとのこと、それ以後は米兵が来るたびに押田さんに来てもらい助けてもらいました。
エピソード3、英語の達人:12月のある日フランクが上官三人をつれて来て店の応接間に座っていました。隣に住む早川本家のおばさん*(早川たけさん)がたまたま店に買い物に来て、応接間にいた上官との会話が始まりました。流暢な英語で話は大いに盛り上がりやがて一緒に楽しそうに英語で讃美歌405番「また逢う日まで」や496番「うるわしの白百合」などを歌いました。上官たちはたけさんの見事な英語と美声に感動したようで、たけさんを「マダム」と呼んでいました。
*早川たけさん略歴抜粋:旧姓山木たけ、北海高等女学校(現札幌大谷女学園)卒業、横浜フェリス和英女学校(現フェリス女学院大学)英語師範科・同研究科卒業、英国大使館駐在武官豊田貞次郎少将(後大将・商工大臣)とその家族に随行渡英、ロンドンスクールオブイングリッシュ、ドレスメーキングロンドンスクールにて学ぶ、センビル卿(貴族)方にて半年間家事見習い、6年間の英国滞在を終え帰国後、高松宮家出仕、高松宮同妃殿下の御外遊の随員として渡英、バッキンガム宮殿に滞在、以後11ケ月に亘り英国内スコットランド・ウエールズ及びヨーロッパ全域及びトルコの主要都市及び3ケ月に亘り米国及びカナダの諸都市及びハワイを回り、合計1年2か月の旅行を終える、帰国後早川三代治と結婚。なお、たけさんは平成6年2月小樽で96才の天寿を全うしました。
エピソード4、家庭への招待:11月のある日曜日の午後父が数名の米兵をわが家に招待しました。母の義弟で小樽裁判所判事の石川秀敏さんが英語を話したいということで参加しました。母は出来る限りの料理を作り我々子供たちも加わりました。楽しい雰囲気で会話は弾みました。大人たちがビールを飲み始めたころ子供たちは引き下がりました。午後8時ころ宴は終わり2階の部屋から下りてきた米兵が次々に家のトイレに入りました。あとから入ってびっくり、男性用のトイレは大混乱で強烈なビールの臭いで満ち満ちていました。皆さん大分酩酊したようで上官が店の帳場の机に座って電話し始めると部下が後ろに来て上官の帽子ぐるぐる回すなどのいたずらをしましたが、上官もご機嫌で大きな声で電話を続けていました。このようなことは日本の軍隊では考えられないことと思いました。その電話で上官が時々「ヨンノステン」と云っていたのを母が聞いて、あの上官の「ヨンノステン」はどんな意味だろうねと訊きましたがその時は誰も分かりませんでした。後年私は「ヨンノステン」は”Do you understand?”と上官が部下に指図をしながら1つ1つ「分かったか」と確認していたのだと思い当たりました。.
エピソード5、末岡欣也さんとの冒険:近所に住む東京外語(現東京外国語大学)出身の樽中の英語教師末岡明治先生の息子の欣也さんは樽中1年生でしたが小学生のころから一緒によく遊びました。物知りで何でも教えてくれ
ました。英語も教えてくれましたので、二人で進駐軍がいそうな場所を求めて市内のあちこちを冒険しました。小樽港の埠頭には米兵がたくさんいて欣也さんが英語で話しかけ、運が良ければチョコレートをもらいました。そこで米兵に教えられた英語、「ヘイ、カモン、ユーサナバビッチ。ヘイ、ユーサナバガン。」Hey, come on. You son of a bitch. Hey you son of a gun.(この野郎、こっちへ来い、なんてこっちゃ)ガッテムユー!God damn you.(馬鹿野郎)などの忌み言葉でした。岸壁で黒人兵二人がバリカンをもってお互いに散髪をしていました。その真綿のような縮れた頭髪が海風に舞い上がっていました。黒人を身近で見たのも初めてでした。我々は*ニグロ兵と呼んでいました。*negro(black)は差別用語で現在はアフリカ系アメリカ人(African American)と呼ぶようです。それから稲穂町の色街、通称「ニッチク通り」へ入りました。そこの各家の玄関には’OFF LIMIT’(立ち入り禁止)の標識が貼ってありました。MP(憲兵)が見回りをしており米兵は一人もいませんでした。さらに大国屋デパートの西隣の松吉商店がPX(米軍酒保)となっており、ショウウインドウに置いてあるチョコレートや色とりどりのお菓子や食品を眺めていました。さらに小樽公園のグランドには100台ぐらいの米軍トラックが置いてあり、その中をぐるぐる走り回りました。最後は欣也さんのお宅に上がり込み先生の書斎に無断で入り英文タイプライターの使い方を教えてくれました。われわれはちょっと不良じみた遊び方をしていたのを父から注意されたこともありました。末岡先生は樽中では厳しい先生だったようですが、われわれ子供には寛大でした。この時米兵も時々末岡宅に遊びに来ていました。昭和21年4月私が小樽市立中学に入学すると末岡先生が「坊や、樽中生に負けないように英語を教えてあげよう」と云って発音記号から英文法の基礎までみっちり教えてくれました。これらの経験が私の「英語事始め」でした。
エピソード6、進駐軍とのお別れ:昭和21年2月には早くも小樽進駐の第77師団の主力部隊が本国へ帰国することになりました。父は米軍の幹部クラスの将兵の送別会を東雲町の料亭「千代本」で開催しました。私も父に頼んで会の始まる前まで見させてもらいました。盛大な送別会だったようで、父は米軍から逆にお土産をいただいてきました。それは米軍の携帯食24個入りの段ボール函でした。朝食、昼食、夕食があり、それぞれのBOXに粉末スープ、ビスケット、クラッカー、ハム、コーンビーフ、インスタントコーヒー、たばこ、チョコレート、キャラメルなどがバランス良く入っており、いずれも初めて見るような品ばかりでした。戦争中日本軍が戦地で補給が絶え、多くの軍人がジャングルの中でカタツムリやバッタを食べたなどの話を聞いていましたので、子供心にこのような贅沢な食べ物をいただくとき日本の軍人さんに申し訳ないような気がしました。われわれ子供たちは親の承諾をもらいながら少しずつ味わいました。
以上終戦から半年ぐらいの間に起きた進駐軍をめぐる私の小ドラマです。 sugarlover
コメント
コメント一覧 (2件)
私が進駐軍を見たのは、昭和26年ごろだったと記憶しますが、札樽国道の潮見台小学校のあたりを札幌方面へ走っていくトラックの隊列でした。我々子供たちが手を振ると、チョコレートを投げてくれたことを覚えております。
今考えてみると、占領軍が、本ブログ記事のように占領地の国民と、親しく交わるなど考えがたいことに思われますが、これは、早川食料品店の人たちの人柄のせいなのでしょうが、子供心の私にも、敵愾心など全くなかったことを考えますと、そして、日本人全体もあまり敵愾心を持っていないように感じられたのは、やはり、世界にもあまり例のないことかなあと思ったりいたします。
早川宏様
本家のおばあちゃん、早川タケさんの夫、三代治さんと小生の父は従兄です。
三代治さんの母と父の母が姉妹の関係です。
もつと知りたいです。
出来たらメールをいただけませんでしようか。