小樽―思い出の地を訪ねて

 

プロローグ:去る7月20-23日私と妻と東京在住の息子の3人で函館、札幌、小樽へ行ってきました。20日昼頃函館空港に集合、1泊して函館観光をした後、21日夕刻札幌丘珠空港着、翌22日朝から息子がレンタカーした車を運転してくれて小樽へ向かい、子供の頃からの思い出の地を回りました。
以下訪ねた順番にあちこち脱線しながら思うままに書きます。

最上町のお墓:小樽に来るのもこれが最後になるかもと思い、先ずはお墓に向かった。近くのコンビニでお花と水を買い、墓地の右端の雑草生い茂る坂道を登り早川家の墓にたどり着きお参りをした。その後子供の頃毎年のお盆にしていたように、すぐ上段の川又家(色内の紙文具問屋)のお墓、さらにその上段の早川本家(早川三代治さんが眠る)のお墓にもお参りをした。当時本家のお墓は自分の背より高い御影石の壁で囲まれており、子供心に他とは違う立派なお墓だなあと思った。たまたま一昨年小樽文学館の亀井志乃主幹学芸員から新発見原稿・早川三代治「敗戦前後」を送っていただいた。その中に、昭和20年(1945)6/7月北海道も米軍の空襲が現実のものとなりつつあった時期に三代治さんがお墓について次のように記しており、子供の頃の記憶が甦った。「大空襲で家が焼けてしまったら、みんな一人でもこのお墓へ来るんだよ・・・と子供たちに云った。・・・墓石と更に御影石で城壁のように取りまいた墓の構造からみて一時の急場の避難場に役立つことを私はかねてから考えていたのであった。」更に昭和20年7月15日(小樽祭)の昼頃小樽の港湾地区上空にも敵艦載機数機が襲来した時のことについても、「敵機が去って警報解除後、港に近い大商店街の下町の方へ下りて行った。そうして永年紙や文房具の卸商を営んでいる一軒の親類の家を訪ねた。・・・私たちがやられてしまって子供たちが生き残った時にはお宅にすがるように言い聞かせてありますから、その時にはよろしくお願いいたします。と主人(川又さん)が云った。私(三代治さん)も同じことです、子供のことをくれぐれもお願いします。と私も云った。」と書いてあり、これを思い出しながら川又家のお墓に頭を下げた。

米華堂:「マッサンご愛顧の小樽の喫茶店」(2015/1/12弊ブログ)に5年ぶりに訪れた。携帯で連絡して長橋の妹(元北照高校音楽教師)夫妻も来てくれ、5人でアップルパイやコーヒーで談笑していたところ、お店の方が花園町の八木光子(2代目店主清昭さんの奥さん)さんに連絡してくれたようで、間もなく光子さんが現れ、一緒に懐かしい昔話に花が咲いた。その時光子さんが先日家で写真を整理していたら私の父母が仲人をした自分たちの結婚式の写真が出てきたので後日送りましょうと云っていた。

8月の初め光子さんからスマートレターが届いた、中にはお手紙と件の結婚式の写真と7/30,31付けの道新の切り抜きが入っていた。結婚式の写真は新郎新婦を中心に私の父母や親せきの方々などが入った記念写真(陣内写真館)であった。私も初めて見る写真で大変懐かしかった。また道新は小樽潮まつりで8千人が参加した「潮ねりこみ」、「お神輿パレード」や「潮太鼓」などがいずれも写真入りで大盛況ぶりを報じていた。光子さんの小樽への誇りと愛着を感じた。光子さんありがとう。

余市のニッカウヰスキー:昭和26年(1951)私が高2春休みの時、札幌の酒販会社の役員であった父が同社に連れて行ってくれた。初めて見る異国情緒漂う建物群を見て感激した。(2015/3/4弊ブログ「余市とニッカウヰスキー」)。平成23年(2011)5月関西潮陵会の有志一行と共に母校訪問後、ニッカウヰスキーの工場を訪れた。幹部の方々やガイドさんの説明を受け、会議室で各種タイプのウヰスキーの試飲をさせていただいた。2014年9月―2015年3月に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」(ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝とその妻リタの物語)は最終回23.2%の最高視聴率を記録するなど人気を博し、以後全国からの見学者が激増したと報じられた。今回3度目の見学であったが(妻と息子は初めて)、マッサン放映後の見学者のために施設が大幅に整備拡充され、展示資料なども豊富になっていた。我々は先ず構内のレストラン「樽」で昼食を取り、ウヰスキー製造工程に従って各棟を回り、「マッサン」を思い出しながらリタハウス、旧竹鶴邸、ウヰスキー博物館などを回った。同社は今後もマッサンの熱と情熱を受け継ぎ、重厚で力強い余市モルトを作り続けていくことでしょう。

マリア幼稚園(現藤幼稚園)とカトリック富岡教会:昭和15年(1940)卒園以来同園を訪れる機会が無かったが、平成14年(2002)9月、緑小学校の同期の仲間たち主催による天狗山頂上での㊟「故斉藤貢君の散骨式」及び翌日の朝里川温泉後楽園での「緑小学校同期会」に出席のため小樽に行った機会を利用して初めて藤幼稚園を訪ねた。小野寺園長に快く迎えられ、卒園名簿を見せてもらった。自分の名前を確認し、その前年の卒園者の中に石原慎太郎さんがいることを確認した。また園児たちが摘み取った野いちごのおいしいジュースをご馳走になった。後、隣接する教会に行き亡くなった畏友斉藤貢君を偲びお祈りをした。今回は二度目の訪問となったが、先ず教会に赴き、ゴシック風のドイツカトリック教会の優雅なたたずまいを見て感動を新たにした。当日は土曜日で幼稚園は閉まっていたが、当直の先生とお話しすることが出来た。この先生は観光バスが「石原慎太郎・裕次郎兄弟が通っていた幼稚園」ということで時々ここに来ますよと云っていた。石原慎太郎は卒園しているが、裕次郎は入園したものの「家にブランコや滑り台があるのに、なんで幼稚園に行く必要あるの?」と反抗し、母親の光子さんもそれは一理あると認め、幼稚園は3日でやめたそうです。石原家の家は緑町のわが家から3百m位小路を上ったところにあり、瀟洒な洋館の山下汽船支店長宅でした。母親の石原光子さんは自転車に乗って時々うちの店に買い物に来ていて女店員とも親しかった。デパートや書店で石原親子に出会ったこともあったが、父親の石原潔さんは威厳のある紳士のように見えた、2人の子供たちも素敵なブレザーを着て革靴を履いていて小樽っ子のわれわれにとっては別世界の人たちに見えた。
㊟斉藤貢:緑小、長中、桜陽高、早大を通じてスキー選手、国体少年組で優勝、早大スキー部主将、大東文化大外国語学部教授・スキー部長、緑小、長中以来の友人、故人の遺志により天狗山頂上で散骨式を行い、緑小・長中・桜陽高・早大・大東文化大その他スキー関係者など多数が参加した。参加者は斉藤君を偲びつつ万感込めて眼下に小樽湾を望む天狗山の滑降コースに散骨した。

緑小学校:母校緑小学校が97年の歴史を閉じることになった。少子化のためやむを得ないことであり、これが見納めと思い、懐かしの母校を71年ぶりに訪れた。3階建ての立派な校舎になっていたが、当時と同じように小樽公園の静かな雰囲気に包まれていた。教育環境は抜群と思うだけに閉校は残念な気持ちがした。通学時期の大部分は戦時下であったが、沖垣寛校長以下立派な先生方に教えていただいた。父兄会(PTA)会長は早川三代治さんでいろいろな式典ではよくお話を伺った。早川三代治さんは小樽市の学務委員を務めていた。前記「敗戦前後」には三代治さんは終戦の翌日の8月16日に緑小学校を訪れ、自分の文学上の師である島崎藤村先生が自分のために書斎掛けとして書いてくれた随筆「はせを」の書軸(掛け軸)を「心の苦しみ、魂の悩みにたいする慰安と勇気づけのため、いつまでも教員室に掛けておいて下さい」と云って校長に手渡したとあります。現在もこのかけ軸は緑小に保管されているようですが、閉校後はどうなるのでしょうかちょっと気懸りです。7月下旬に関西小樽会事務局の藤田久美さんから緑小学校閉校記念のTシャツとうちわを総会時の資料などと共に送っていただいた。鮮やかなグリーンのTシャツとうちわをフィットネスクラブで愛用している。藤田さんありがとう。

石原裕次郎記念館:8月31日をもって閉館すると聞いていたので、最後のチャンスと思い入館した。私自身は2度目(妻と息子は初めて)であったが、子供の頃裕次郎は近所に住んでいたこともあり、また裕次郎の映画や歌の数々は若い頃から長い間私を楽しませてくれたので、貴重な愛用品や写真などを目に焼き付けた。今でも「俺の小樽」、「恋の街札幌」や「さよなら横浜」などはカラオケで歌うこともある。夕刻、裕次郎の思い出を胸に小樽を後にした。道中、平磯岬の高台に建つ優美な銀鱗荘が見えた。そこは54年前新婚の夜を過ごしたところであり、若かったころを思い出し懐かしかった。

8月31日、石原裕次郎記念館は26年の歴史に幕を下ろした。累計入場者は2020万人、同日妻の石原まき子さん、俳優の舘ひろしや神田正輝らが記念館を訪れ、大々的なセレモニーを行い、訪れたファンに感謝したとTVや新聞が報じた。

エピローグ:今年の5月の中頃息子から電話があり、妻の喜寿の記念にニューヨークへ行こうと提案してきました。二人ともNYまでの航空機による長旅は健康上自信がないので、代わりに北海道へ行くことになり、息子がすべて手配し、同行してくれました。小樽では私が希望したすべての場所を効率よく回ってくれました。今回の旅は思い出満載の旅でした。  sugarlover

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コメント

コメント一覧 (3件)

  • 昭和26年生まれの高橋にとっては、早川さんの記事は大変楽しく、当時の小樽状の状況を想像させてくれます。僕の母方の祖母は昭和33年に亡くなり緑町の墓地に埋葬しました。けれども墓参りの記憶は小さい頃しかなく、その後は余市に変わりました。これからも機会あるごとに色々と教えてください。

  • 私の家は、早川さんのお宅の50m位下の妙見川沿いにありました。早川さんの弟さんの尚義君(故人)とは小、中、高と同じ学校に通い仲良しでした。私も小樽に帰るたびに紅葉橋の上から、旧我が家を見た後、早川さんのお店の前を通ってカトリック花園教会で絵葉書を買います(お店が閉まっているのがさびしい風景ですが)。
    富士幼稚園も私の母園ですが、裕次郎と同じく中退です。早川さん、益々お達者で!

  • 嬉しいコメントありがとうございます。
    小樽文学館の亀井主幹学芸員によると、8/5~9/10文学館で開催された「石原慎太郎と裕次郎展」には2千6百人と通常の2.5倍の来館者を記録し、石原兄弟のインパクトの大きさを痛感したとのことです。
    石原裕次郎記念館の閉館は残念です。小樽の重要な観光資源の一つであったと思い、先日入館した時も設備が老朽化したようには見えなかったし、26年で老朽化とは考えられません。入館者が漸減したというなら、増加のための対策をこれまで取ったのでしょうか。小樽市の人口は減少していますが、観光客は増えている筈、幼少期を小樽で過ごした石原兄弟の強大なインパクトを活用することが小樽市の活性化のためには賢明な方策ではなかったのでしょうか。以上老人のたわごと。