令和元年 関西小樽会 秋のイベント 「犬山城」と尾張のもみじ寺「寂光院」

開催概要

開催日:2019年11月20日(水)

イベント報告

犬山城と尾張の寂光院゛バスツア-で、出会った武将たち。

朝夕が少し肌寒く感じられる11月20日、大阪西梅田・モード学園前より総勢21名がバスに乗り込み、出発。お元気になられたと聞いていた新沼さんが不参加で残念でしたが、関西小樽会の春秋のイベントにはいつも東京から出てこられる鷲山さんも参加して、バスは名神高速を一路愛知の犬山城市へ。

途中小高い丘の上に天守閣が見え、あれが?と思ったのは小牧山城、いや城の跡地に建てられた、天守を模した歴史館とか。

織田信長によって美濃攻略の本拠地として築かれた小牧山城。居城の稲葉山城を信長に攻め落とされた美濃城主、蝮の齋藤道三や、娘の濃姫など、昔みた歴史ドラマの面々が次々に浮かんでは消え、いよいよ戦国時代の記憶を刻む土地に入ってきたのかと、わくわく、気分が高揚してきました。

12時前、犬山城近くの駐車場でバスを降り、犬山城下町を少し行った「犬山しみんてい」で、仕出し弁当をとり、昼食。近隣にお住いの柿崎さんがすっかり手配して下さったようで、その後は、城下町散策と犬山城見学のグループ二手に分かれましたが、万事スムーズに運びました。

城下町には、「からくり展示館」や、「旧磯部家住宅」、国指定の重要無形民俗文化財の犬山祭で曳かれる山車が展示される「どんでん館」など、歴史ミュ-ジアムが目白押しのようで、走りばしりで来るのは、もったいないようです。休館もあり今回は、いずれもスルー。

大河木曽川のほとり、小高い山の上に凛とそびえる国宝犬山城は、室町時代の1537年、信長の叔父織田信康によって築城され、天守は現存する日本最古の様式だそうです。

1600年の関ケ原まであと63年。信長に攻略された後は、信長四男の勝長が城主となるも、本能寺の変で信長と運命を共にし、やがて小牧・長久手の戦いで犬山城は秀吉の手に。天正12年1584、秀吉入城。そして関が原の戦いの前哨戦で東軍に占拠されと、信長、秀吉、家康の三英傑が奪い合ったこの城も、1617年に家康の重臣成瀬正成が拝領して、幕末まで成瀬家が城主を務めてきたそうです。

石落としがある一階、武具が供えられた二階、正面に威風を放つ唐破風と、東西に入母屋破風が施された三階、晴天の日ははるか名古屋城、岐阜城まで望むことができるという望楼の四階。すっかり修復が終わった天守閣からみる木曽川は、緩やかに蛇行し、おだやかな面持ち。

しかしいずれの階段も35度くらいはあろうかという急勾配!しかも狭い!階段で、鎧兜をつけた武士が転がらず、よく昇り降りしたものよ、と怪しむほど。

歴代城主だった武将の肖像画が架かげられた中に、背広姿の人物があり、えつと思うと、明治24年の濃尾地震を契機に、成瀬家個人に無償で払い下げられ、全国で唯一、旧城主による個人所有のお城だからということで、歴史の変転を鮮やかに伝えています。

ボランティアガイドの小林雄二さんは、「この城は、別名白帝城(はくていじょう)。荻生徂徠が名付け親です。木曽川沿いの小高い山の上にある天守の佇まいを、中国・長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんでいると伝えられます」と説明して、李白の詩を朗々と吟詠してくれました。

朝(あした)に辞す白帝彩雲の間。

千里の江陵一日にして還(かえ)る。

両岸の猿声啼いて住(や)まざるに。

軽舟已(すで)に過ぐ万重の山~

中国の白帝城は、三国志の舞台にもなっており、あの劉備玄徳が崩御した城として有名なのですが、鎖国政策をとった江戸時代、荻生徂徠の憧憬やまぬ、見果てぬ夢の地だったのでしょう。

「私、荻生徂徠の代りに白帝城を観てきましたよ」と小林さんにそっと告げると、それは、それは、いいですね~。としばらく話が弾みました。1991年か、92年、長江ダムが着手される前年位、長江の三峡川下りに行き、白帝城を見上げてきたのでした。赤壁(レッドクリフ)までつながる長江(揚子江)の本流から三峡に入ると、4、5人乗せる小舟を静かに操る竿の水音だけが、深い緑の峡谷に響き、無人の両岸からはかすかに猿の鳴き声が・・・ まさにこの世とは思えない、神秘なまでの静けさに支配された伝説の世界だったことを思い出します。

さて、ガイドの小林さんに別れを告げ、バスに乗車。川沿いを「尾張のもみじでら」として有名な継鹿尾・寂光院へ。1000本とも3000本とも言われる巨木が多いのが特徴のもみじ寺、全山が赤く燃えたつ時は、さぞや素晴らしいことでしょう。今年の異常気象で色づきはまだ30パ-セントほど。

可愛いスロープカーでゆるゆると山の中腹にある本堂へ。真言宗智山派、信長も柴田勝家と共に参拝し、清洲城の鬼門鎮護の霊刹として山林50町歩を寄進したという尾張最古刹の霊場らしい風格ある佇まいで、ご本尊の先手観音は秘仏、60年に一度甲子の歳に開帳されるそうです。丁度11月9日から12月8日まで「もみじまつり」開催中で、どこかのテレビ局が中継に入っているとか、賑わいをみせてました。

帰りは七福の福を頂きながら、苔むした石段参道を下山。一足一足、ひょっとして信長公の足跡を踏みしめてはいないか、と思うと、自然に笑みがこぼれます。

犬山城の望楼から、寂光院の絶景・展望台から、木曽川の泰然自若とした流れを見ることができました。江戸時代は中山道と名古屋道に通じた交易の要衝として、木曽川船運の要として犬山城は睨みを利かせていたのでしょう。

地元では今、わが郷土固有の伝統文化「山・鉾・屋台行事」を、ユネスコ無形文化遺産登録にと、盛んな取り組みがなされているようですが、そのパンフを見るだけで、犬山祭(犬山市)を始めとして、知立まつり(知立市)、潮干祭(半田市)、須成祭(蟹江町)、尾張津島 天王祭(津島市・愛西市)、どれをとっても豪奢絢爛、この祭りを支えてきた地元の経済力の凄さ、共同体パワ-の半端でない豊かさに圧倒されます。

戦国武将たちが近世にむけて知力を尽くし、国づくりをしてきた成果を、地元の方々が守り続けてきたという何よりの証しでしょう。

愛知のことはせいぜいトヨタ、ひつまぶし、味噌だれおでん位のステレオタイプのイメ-ジしか持っていなかったのですが、どの土地にも素晴らしい暮らしの伝統があり、その地を踏んで、その地の地霊に遭わなければ分からないことがあるのだと、良い経験になりました。

事務局のみなさま、ありがとうございます。
次回をまた、期待しております!!

【記:斎藤 かおる】

【写真:手島 肇】

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