私は関西小樽会の会員ではなく、北大時代に藤田久美さんと同じ学年同じ学部だった縁で、イベントに時々お邪魔している野次馬である。
大阪生まれの大阪育ちで、北海道生まれですらないのに、私がこの文章を書く羽目になったのは、北海道大学関西同窓会を始め、北大や北海道の人との縁を大切にして、常に献身的に世話をしている藤田さんからの依頼に、万やむを得ず首を縦に振らざるをえなかったからである。
ただ、言い訳めくが、私は小樽文学館を支援している小樽文學舎の会員を二十年来続けていて、純喫茶「光」や寿司「魚真」、「かね丁」のきりこみを愛する小樽ファンではある。
さて、今年の桜イベントは、3月27日(月)、西ノ京の世界遺産両寺院、薬師寺・唐招提寺とお城祭り開催中の郡山城を回るという、なかなか贅沢な行程であった。近鉄橿原線の西ノ京と郡山は二駅離れているが、今回の企画の立役者である有本恭子さんは、その間の駅である九条にお住まいで、まさに地元の名所を皆に御披露下さったわけである。因みに、九条と言えば、人によっては、大阪の九条を、人によっては京都の九条を思い浮かべる方もあるはずだ。近鉄は阪神や大阪・京都の地下鉄に相互乗り入れしているので、そのすべての九条駅を近鉄電車に乗って通過できるわけだが、近鉄自前の九条駅は、この橿原線の駅だけである。
脱線が過ぎた。有本さんは、薬師寺・唐招提寺を案内してくれたボランティアガイドとの交渉を始め、大和郡山城ホールのレストラン、カステッロの昼食会場も設定して下さった。この設定がなければ、総勢18人という大人数が一度に昼食を取ることは不可能であったろうことは、実際、この鄙びた界隈を歩いてみて実感できたことであった。カステッロのマスターと有本さんが知り合いであったおかげで、季節の限定商品である桜弁当に舌鼓を打てたのみならず、城祭り中の割り増し価格であるはずが通常価格で提供されるという恩恵に預かり、各テーブル1本のビールが生み出されることとなった。
ついつい食い気に走ってしまったが、西ノ京の薬師寺と唐招提寺は、共に世界遺産と言いながらも、対照的な印象を受けた。薬師寺は、近鉄西ノ京駅に隣接していると言っていいくらい、ロケーションに恵まれ、観光客が引きも切らず訪れる印象で、国宝の東塔や東院堂を除けば、多くの建造物が復元・再建建築で、彩色も艶やかなものが目に付く。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、修理落慶法要が3年も延期されていたが、12年をかけた全面解体大修理を終えた東塔も、とても創建より1300年も経っているとは思えない。ただこの塔だけは彩色がなく、この東塔の調査分析に基づいて再建された西塔が五色に彩られ、東塔にも本来あった連子窓が設けられている姿とは好対照であった。
その前に薬師寺で最初に訪れた東院堂は創建当時のものでなく、鎌倉時代の再建であるが、薬師寺の建物としては東塔とここのみが国宝に指定されているだけあって、歴史の重みを実感させられた。東院堂には、国宝聖観世音菩薩立像(白鳳時代)が安置され、その四方を重要文化財の四天王(鎌倉時代)が取り囲んでいる配置は壮観で、見応えがある。
しかしながら、薬師寺の仏像と言えば、その大きさといい知名度といい、金堂に安置されている国宝薬師三尊像、薬師如来・日光・月光菩薩(白鳳時代)が出色で、実際この仏たちの前では厳粛な気持ちにならざるを得ない。この三尊の中心仏薬師如来の台座文様は、ギリシャから中国に至る各古代文明の象徴的文様が刻まれているが、本物そっくりに模刻されたレプリカが別に用意されていて、じっくり見たい者の知識欲を満たしてくれる。
この日、薬師寺では花祭りが行われており、華やかな雰囲気であったが、飾られている花々はすべて造花で、移ろい行かない永遠性を手にすることを象徴するためかと思わぬでもなかった。
伝統工法による復元建築としては史上最大の規模を誇る大講堂には中村晋也氏の彫刻、釈迦十大弟子が祀られており、近代彫刻としてなかなかのできである。また、與楽門の外ではあるが、玄奘三蔵院伽藍には、平山郁夫の大唐西域壁画殿が設けられ、シルクロードの印象的光景を見せてくれた。
薬師寺は、度重なる災害で多くの建物を消失したが、ここ半世紀の再建にあたり創建当初の姿どおりに伝統工法を用いて再建したことで、将来的には貴重な文化財となるのは間違いない。また現代の仏師の彫刻作品を国宝・重文クラスの仏像が居並ぶ中に置くことに疑問を持つ向きもあるだろうが、像の持つ迫力は文化財の仏像群と拮抗する出来栄えである。
薬師寺は、文化財を過去の遺物としてではなく、現代享受している真に優れたものが、長い年月を乗り越えれば、文化財となるというダイナミズムそのものを見せてくれたように思う。
その薬師寺から、水路のある歴史の道を10分あまり歩いた所に唐招提寺がある。観光客は歩くのが苦手なのか、唐招提寺まで足を伸ばす観光客は思った以上に少なく、静謐な雰囲気である。この立地の違いが、両寺院のあり方の差異に繋がっているのかもしれない。鑑真和上創建でその鑑真和上座像で有名なこの寺は、奈良時代に建てられた金堂、講堂、宝蔵、経蔵の4棟に合わせ、鎌倉時代再建の鼓楼が国宝、鎌倉時代建設の礼堂・東室と江戸時代のもので移築復元された御影堂の3棟が重要文化財、そのどれもが彩色のない建造物で、見るからにシックで落ち着いている。観光客のみならず、寺の関係者の人数も全く違う。唐招提寺は寺院関係者の気配も少ないのである。
薬師寺は法相宗大本山、唐招提寺は律宗総本山。それぞれの宗派の特色かどうかは不明だが、仏教の宗派としては信者数がそれほど多くはない両寺が、共に世界遺産となりながら、持っている文化財の違いが大きな理由だとは思うが、大きく違う見せ方をしているのは興味深い。
唐招提寺は建造物群のみならず、金堂や講堂に安置された仏像群も見応えがある。特に金堂の盧舎那仏・薬師如来・十一面千手観音菩薩の三尊を中心に梵天・帝釈天の脇士、それらを守護する四天王の九体がいずれも国宝であるのは、素晴らしい光景である。ただ、唐招提寺の金堂は奥行きが狭く、我々は内陣に直接入ることは叶わず、その仏像群を明かり窓から覗き見する形で鑑賞するしかない。その点も薬師寺の金堂とは対照的であった。
更に唐招提寺の顔とも言うべき鑑真和上座像であるが、非公開の御影堂に安置され、年に3日間(今年は5日間)の特別公開日しか見ることができない。我々は、開山堂に安置された「御身代わり像」と称されるレプリカをガラス越しに太陽の反射光を避けつつ拝観した。なお、この御影堂には東山魁夷が十年を費やして制作した障壁画が奉納されているが、これも美術館に特別出品される時を除いて、鑑真和上座像公開に合わせて見られるだけである。
世間では複製技術の向上により、本物と寸分違わぬレプリカも数多く作られるようになった。薬師寺の薬師如来の台座文様と唐招提寺の鑑真和上座像の両レプリカは、本体の持つ文化財としての価値の違いはあるものの、レプリカの扱い方の違いは興味深いものがある。また、薬師寺の平山郁夫の壁画と唐招提寺の東山魁夷の障壁画の公開の仕方も、その両者の絵が描かれている場所は考慮する必要があるが、共に現代を代表する日本画家の作品だけに、両寺のスタンスの違いが顕著で面白い。
唐招提寺の奥まった所に、鑑真和上御廟がある。この周辺の環境が素晴らしい。一面こけに覆われた緑の世界を進んだ果てに祀られてあり、まさに異空間を感じさせる。また鎌倉時代に築かれた石段しか残ってはいないが、実際現在も使用されるという戒壇も、この寺独特のもので見応えがあった。
唐招提寺で、我が班のボランティアガイドが最後に案内してくれたのが、校倉造りの国宝宝蔵・経蔵であった。ボランティア氏は、学校で習った夏隙間ができて風を通し、湿気が多いと隙間が閉じて湿気を入れないという校倉造りの特徴は、近年の科学的分析によると数値的には眉唾だと語ってくれた。その説明を否定する気はないのであるが、校倉造りの横壁の木の組み方、すなわち単純に面で積み上げるのではなく、わざわざ45度回転させて接触面を線にする組み方は、古代の人たちの素晴らしい工夫であり、せめて教科書に書かれていることが事実であるべきだとへんな義憤に駆られ、己の頑迷さを認知したのであった。
最後に昼食後、近年近畿地方で桜の名所としてとみに有名になりつつある郡山城(跡)を訪れたのであるが、丁度桜が満開で見事であった。ただ天守閣がなく、天守閣が建てられていた天守台が最も高い部分であるこの城跡は、近鉄郡山駅のすぐ目の前にあるというロケーションであるにもかかわらず、まさに城、石垣があり堀があるために、城内に入るルートが限定され、まさに一筋縄では登城が叶わないのである。しかも内堀の外とはいえ、城内に郡山高等学校を抱え込む敷地面積の広さである。天守台までの道は、経巡る感じで、なかなか歩き応えがあった。昼食後のちょっとした時間潰しなどという目論見はもろくも崩れ、腹ごなしのいい運動であった。
天守台に上って、風景を見渡したときに、豊臣秀長が拡張し、徳川が譜代大名を次々に入城させ、この城が奈良最大の城として聳え立ってきた理由がわかった。この城からは、奈良の重要な地域がすべて見えるのである。平城宮址、東大寺興福寺の南都、若草山、三笠の山
春日大社、西ノ京、飛鳥地域、畝傍山等々。まさに郡山城は奈良を支配下に置くには格好の位置に存したと言うべきなのだ。郡山城の規模拡大に最も大きな働きをしたのが、豊臣秀長であるが、急いだため、さかさ地蔵に代表される各寺院の礎石や五輪塔、庭石などを転用石材に用いて高石垣を作り上げた。己の短命を察知したかのような急ぎっぷりには、歴史を知る者には哀れを催させた。
お城が広大で、お城祭り開催中は屋台や出店も多く、我々のように他を巡らなくとも、お城だけで結構観光が完結するためか、訪れたのが平日の月曜日であったせいか、城見物の後散策した郡山の町は、開いている店も少なく、シャッター街も目に付き、地方都市の悲哀を感じることになった。
桜イベントという行事名からすると、この郡山城こそがメインであったはずなのであるが、前半の世界遺産の両寺が重かったせいか、結果的にはほぼ全員が訪れることにはなったものの、昼食後の郡山城は自由散策というアナウンスもあり、やや粗雑に扱われたその扱いそのものが、天守閣を持たない郡山城跡、またその城跡を大きな観光資源にせざるを得ない大和郡山という町の現状を象徴しているように感じられた今年の桜イベントであった。
コメント
コメント一覧 (1件)
大森様
詳細かつ含蓄に富む報告、ありがとうございました。忘れかけていた薬師寺、唐招提寺の光景が思い出されました。やや軽んじられた感のある満開の大和郡山城も。
秋もご参加ください。
有本様
ボランティアや昼食の手配ありがとうございました。おかげで充実した花見の会になりました。