栖原家と択捉島 その2

ところが天保五年の択捉島は「皆無不漁」であり、空船で函館へ戻る状態であったという。中村屋・関東屋が多額の仕込金を借りて返却不能に陥り、運上金も払えず、証人の伊達林右衛門が借金を返済するはめになっている。この様な不如意があってか、天保八年(1837)藤野喜兵衛・岡田半兵衛・西川准兵衛の三人が択捉場所の請負を命じられ、三者は、合資による匿名組合を組織、いずれも近江商人であることから「近江屋宗兵衛」と称し、共同で択捉場所を請け負った。函館に本店を置いて、出資比率は藤野が六、西川と岡田が各ニの割合だったという。

運上金は千両で翌九年から経営にあたったが、これも仕入れが嵩み、多額の損金を出して、わずか四年間で、年季途中の天保十二年請負の返上に追い込まれている。藤野らの近江商人グループに代わって翌十三年から請け負いを引き継いだのが伊達林右衛門、栖原仲蔵の両家であった。伊達屋は奥州伊達郡貝田村の出身で、寛政五年(1793)本家伊達浅之助の支店として松前に開業、一方栖原屋は紀州有田郡栖原浦の出身で、明和二年(1765)松前に進出している。両家とも場所請負に乗り出してゆくが、幕府の蝦夷地直轄時代にご用達に取り立てられて以来、屈指の豪商に成長した。択捉場所を請け負った伊達林右衛門は、幕末には松前藩の勘定奉行格ともなっている。

伊達・栖原コンビによる共同請負は択捉場所のほかに、北蝦夷地(カラフト)場所、山越内場所などがある。樺太や択捉の漁場経営は遠隔地であることなどから、リスクを少なくするために共同請負形式がとられたものであった。両家による択捉場所請負は、以後幕末の仙台藩分領時代を含め、幕府倒壊後の明治二年場所請負制の廃止まで続いた。その後も漁場持ちの名目で択捉島などの漁場に共同で関与したが、伊達屋はやがて漁場から手を引き、明治九年に栖原屋に経営の一切を譲り渡してしまう。明治九年に漁場持制度が廃止されるが、栖原屋は択捉島での漁場経営を続け、またウルップ島(得撫島)での漁場開発を新規に進め、鮭鱒の缶詰製造や人工孵化、また硫黄鉱山の開発に乗り出し、漁業の方は昭和二十年の終戦まで続いたのである。

択捉場所請負の初年の天保十三年~文久元年迄の二十カ年分の損益勘定を見ると、請負初年に一万千五百両程の仕込損金が出たが、その後嘉永四年まで順調に益金が計上されたようだが、嘉永五年~安政三年の五カ年は年々数千両の損金が出た不漁時期であり、結局文久元年までのニ十カ年の勘定益金は四千両弱で、年平均僅か二百両程の収益となる。文久元年迄で考えると、苦労の多い場所で、天保十四年段階で林右衛門、仲蔵義も「全く利潤に相拘り候節ニ無之」とあるように収支も釣合い兼て請負人も永続きせず、高田屋から中村屋・関東屋、藤野・西川・岡田と替り、番人稼方の監督も侭ならない、遠海の難場である。

しかし、松前藩は対外的坊備の要地でもあり、伊達・栖原に頼り、取締り厳重を最優先させ、北辺守備の任を伊達・栖原両家に命じたのである。

続く・・・

史料紹介 佐倉藩士のエトロフ島絵図

タン子モイ

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フウレヘツ会所

フウレヘツ会所

アリモイ フウレヘツ会所ヨリ十三里余 止宿所

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トシラリ

トシラリ

エトロフヨリ クナシリ渡海

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 寺島さんとの会話で印象に残っていること

    • 我々が子供の頃見かけた、日魯の缶詰は栖原が立ち 上げた事業とのこと
    • 昭和16年12月8日未明、日本帝国連合艦隊がハワイ真珠湾を攻撃して、日米開戦となったが、その艦隊が、択捉島の単冠(ヒトカップ)湾から発進したのですが、このヒトカップ湾は栖原家の漁場だったとのこと