栖原家と択捉島 その3

遠藤吉平氏の談(昭和ニ年)

今より六十八年前(安政六年)予が十九歳の時、日本型船に乗り択捉に航して栖原漁場の鮭鱒を積み取りたる事あり、当時の航海は風浪の危険云ふべからざりし上に、所々に魯船出没し、ともすれば略奪に遇う事あり、剰(あまつ)さえ陸上には羆熊群をなして人家に近づき倉庫を破り、人畜を害する事稀(まれ)しからず、而して幕府の政令は遠く及ばず、故に此の附近に航海する者は父母親戚水盃を交わし、生命を屠して往来するを常となしたりき。
海陸の危険斯くの如きを以(もっ)ての故に、出漁者は何れも剣銃その他武器を携帯するを要し、栖原屋経営の各漁場の如きも大砲小銃を備へたり。現に予の上陸せし同島「フーレベツ」(振別は栖原屋会所のありし處)には数門の大砲を備え付けたるを見たり。
魯寇(ろこう)頻々樺太及び千島諸島を侵したる事は史上既に明瞭なる所なり、文化四、五年の頃と覚ゆ、間宮林蔵在島中幕府の調役戸田又太夫、支配人川口陽助他南部・津軽の戍卒数百名シャナ港(現今の紗那港当時会所元のありし處)に駐屯中魯船三隻にて侵し来たり上陸せり、此時間宮の指揮に従えば能く之を撃退する事を得たりしに戸田又太夫逡巡決せざりし為め、戦機を逸し虜をして掠奪を擅(ほしいまま)にせしめ且つ我軍兵多数の死傷を出せり。戸田は一旦「ルベツ」(今の留別)方面に逃れしも、間宮の言に反きて敗戦したるを悔い「アリモイ」(今の有萌)山上に於いて屠腹して無惨なる最後を遂げたり。今尚ほ有萌山上に戸田の墳墓あり。此敗戦は択捉に於ける魯寇の著しきものなれども爾来嘉永・安政を経て明治の初年に至る迄、魯寇の掠奪横暴を極めたりし事は毎年幾回なるを知らず。

参考
遠藤吉平・・・・天保十二年三月十五日越後国北蒲原郡築地村に回船業佐藤六右衛門の二男として生まれる。慶応元年同郷の人遠藤吉平の養子となり養父の没後襲名し吉平と改名。十四、五才の頃より船に乗り夙(つと)に北海風涛の間を往来し、事業上栖原家と関係を結ぶ事かれこれ七十年に及ぶ、遠藤家は三代前より船舶事業を営み栖原家より資金を仰ぎ、船舶を造り航海貿易に従事した。
明治四十一年衆議院議員に当選する。
昭和七年八月十二日九十二歳で没。

続く

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  • 民間企業の栖原家が数門の大砲を備え付けていたとは驚きです。でもロシアとの北方領土と漁場を巡る争いはこんなに以前からずっと現在まで続いていたのですね。