栖原家と択捉島 その4

「択捉場所請負ノ命ヲ蒙レリ、然ルニ偶々(たまたま)不漁連続シ加フルニ本州ノ農作稔ラズ米価非常ニ暴騰シテ輸入ノ道殆ンド絶ヘントシ為メニ漁獲物ノ購買力ハ頓(とみ)ニ減シ価格従テ下落シ収支相償ハサルヲ以テ遂ニ返納シ後之レヲ継続スルモノナク将ニ昔日の荒寥(こうりょう)二帰セントセリ茲(ここ)ニ於テ松前藩ハ特ニ栖原仲蔵、(中略)伊達林右衛門ノ二人ニ命ジテ之レガ挽回ノ策ヲ建テ処理セシム角兵衛藩命ヲ拝スルヤ先人ノ功空シク煙減ニ帰シ国利ノ挙ラザルヲ憂ヒ慨然奮テ之ガ処理ニ従ヒ天保十三年ヨリ着手シ大ニ漁業ノ進歩ト拓殖ノ道ヲ講セリ。」

択捉島漁業誌より

弘化三年前後数年間は全島一般鱒の大漁打続き、其群集の状は名状すべからず海中一夜に砂州の隆起せしを怪み寄昆布の非常に漂盪(ひょうとう)するに驚き近づき見れば皆是れ鱒の群集して背鰭(せびれ)を水面に出して噞喁(けんぐう)するものにてありき。今日、尚一般の口碑(こうひ)に残れる。櫂(かい)を立ててもサキリを立てても其侭(そのまま)にて転ばぬ程の有様とは此時の事なり。此頃は紗那有萌は各漁場一か所なりしが、一日一回網を曳けば数十人の漁夫昼夜奔走して絞粕に焚くも翌日までかかるを以て、隔日一回の網曳と定めたり、而して或年の如きは此二カ処の漁場に対し積取船はナヨカに拾艘、有萌に五艘掛かり居りしも積切れず、数百石を穴粕となし翌年に至り積出しぬ。

当時に於ける栖原の支配人は長谷川喜右衛門と云う人にて、アイヌは呼で大漁の神と尊称し、振別湾頭老松天に沖するの処に聳へて古色蒼然「三界萬霊」の四字を刻し高く三檀石上たるものは同人の遠逝(えんせい)を聞きアイヌが其遺徳に酬ゆるの記念碑なり。満つれば欠くる世の習ひとは海底の漁族にも及ぼすものにや、昨日まで宝島と称へ腹鼓を撃て安眠せしに、嘉永三年前後に至り恰(あたか)も前と反対に「七ケ年間引続きての大不漁にして、年々積取船は各漁場に下り荷物を下ろせしも上がり荷物は甚だ少なく皆振別湾会所の前に集まり砂利小石を荷足として帰帆し誠に心細き限りにてありし。(後略)」

(小山栄吉氏口話)

参考
噞喁(けんぐう):魚が水面に浮かびぱくぱくと呼吸する。
口碑(こうひ) :いいつたえ

続く

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