小樽についての記憶は、もうだいぶ昔のことになりました。
父親の転勤で札幌の小学校を卒業してから、小樽へ転居して最初は水天宮の近くの堺中学に入学し、すぐに学校の編成変えがあったのでしょうか、椅子を持って運び花園町の菁園中学になったような記憶があります。昭和26年のことです。小樽に住んでいましたのは、この中学への入学から、潮陵高校1年の一学期までの3年ちょっとの期間です。
ただ、丁度、多感な時間をすごした為でしょうか、その時の記憶は鮮明で忘れ難く、特に中学のクラスメートとの親交は年と共に深くなって行くような気がします。と言いますのは、このクラスは一年生から三年生までクラスの組み換えがなく同じメンバーで3年間過ごしたせいで、特に仲が良いのでしょうか、卒業後、四半世紀も経って、初めて小樽でのクラス会に参加してから、2年毎で、その後1年毎の小樽や札幌でのクラス会には関西からや、名古屋、東京から集まってきます。3年間の担任の“若林あい”先生の出席は卒業47年のクラス会で最後になりました。国語を教えて頂いた先生でしたが、いつも優しく、ただ時には非常に厳しい先生でした。
小樽での住まいは、菁園中学の真下で、学校が終わると多くの級友が自宅へ集り大遊びをしたものでした。
冬の最中、色内川の河口で、ごめ(海猫?)釣りをしようと、大きなラードを購入し、これに大きな“はり”を付け、ロープをつないで、冬で魚が獲れにくくなった“ごめ”が、流てくる食べ物を狙って集まってくるのを、ラードで釣ろうとしたのです。この企てに加わった級友の悪童達が、寒い倉庫の陰に隠れて長い時間待ち、とうとう何も獲れず“騙された”、“騙された”と今でも言われます。
同じく冬には、菁園中学と花園小学校との間にスキーのジャンプ台が作られ、これを飛ぶ試験がありました。怖がりですから、これは恐怖の記憶です。
中学を卒業し潮陵高校へ入学したのですが、一年生の夏に、これも父親の転勤で長崎の高校へ転校しました。転校は大変でしたが、唯一の喜びは、潮陵高校のあの恐ろしいジャンプ台を飛ばずにすんだことでした。
いろいろなことが思い出されますが、昨年の喜寿のクラス会で一応打ち止めと言っていますが、やはり今年も小樽へ行ってクラスメートに会いたいと思っています。ただ、その集りも少しずつ人数が少なくなってゆくことが少しさびしいのですが。
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ブログ記事を読ませて頂き、私も子供の頃の小樽を私なりに、なつかしく想い出しておりましたら、読者の方から下記のメールを頂きました。
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