私は中途採用就職のため、昭和45年正月大坂に来た。1月1日の採用だが御用始めの4日に出勤するため、大雪を心配し大晦日に小樽を出て札幌で一泊して元旦に札幌を発ち3日大阪に着いた。出迎えてくれた上司は、独身寮の手続きができるまで数日泊めてくれた。上司宅には小学生が二人おり、奥様は正月料理をご馳走してくれた。職場はJR天満駅のそばで近くに拓銀天六支店があり、懐かしく早速口座を開設した。
丁度その年の3月半ばから9月半ばまで大阪万博が開催され、朝から晩まで何日も通って殆んどのパビリオンを見て回り、エキスポランドのダイザラザウルス(?)と称する5コースのジェットコースターも全て乗った。電電公社が用意した無料の公衆電話の前は長蛇の列であった。4月8日夕刻80名近くが死亡した地下鉄天六ガス爆発があった日も万博に出かけており、大阪に帰ってそのニュースを知った。小樽の母親から職場に電話があり、本人は今日休んでいると知ると随分心配したらしい。
大坂に来たのはほぼ半世紀近い昔で、旅行に飛行機やホテルを使うことは考えられず、携帯電話やファックス、パソコンの無い時代であった。現代とのギャップを実感すると同時に、50年後孫達の生活はどう変わっているか知りたい気がする。
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コメント一覧 (2件)
私は万博の年(昭和45年3月)に高校卒業、東京の大学へ進学しました。夏休みに高校同期の友人と東京に戻る途中にフェリーで舞鶴に行き京都に二泊して、万博を見ました。人が多いのに驚き、人の少ないところばかりの館を回った記憶があります。まさか今、自分が関西に住んでいるとはその時には思ってもいませんでした。
就職のため、上京した若いころのことを懐かしく思い出しますね。