4月1日、アジア協会アジア友の会主催による標題タイトルのチャリティウオークに参加しました。当日は好天に恵まれましたが、桜は2―3分咲きといったところでした。案内は、いつもの大阪おもしろ案内人の沖本然生さんがされ、久し振りに大阪の歴史に触れた気がしました。39人の参加でした。
午後2:00時、環状線京橋駅を出発し、大正7年の大阪市街の地図を見ながら、まず京阪京橋駅の前にある「京街道と大和道の碑」へ行きました。碑には「左 京みち」「右 大阪」「右 大和 なら のざき」と記されこの場所が街道の分岐点になっていることがわかりました。江戸時代参勤交代の際、西国大名はこの京街道から京都へ入ることは禁じられていたそうです。その後、鯰江川(なまづえがわ)、寝屋川のあたりを散策し、さらに大川に沿って桜ノ宮まで歩きました。左に帝国ホテル、OAPタワー等の高層建築等を見ながら大川(旧淀川)の右岸を歩きましたが、我々が大阪に来たころはその左岸には、まだ三菱精錬所を始めとした薄黒い工場群の跡があったものです。大阪の今と昔を考えさせられた散策でした。5:00には桜ノ宮駅に着きそこで解散。有志19名はその後懇親会に出席。
以下、記憶に残っていることを下記いたします。
- 片町の地名 京都から大阪への路が大阪城から見通せるようにと家は片側のみに立てることが認められたためだそうです。元の名は「京橋片原町」。明治になり片町線が開通した時に片原町の「原」を取り「片町駅」、そして今は、JR東西線開通で「大阪城北詰駅」。見張りの侍が今にも出てきそうな名前の駅ですね。
- 網島の地名 このあたりは「もろこ」を採る網が干してあった島だったとの事。
- 都島の地名 古代の高津宮や難波宮に近いことから、または両都に向き合う島(宮向島)の転靴とのこと
- 蒲生墓地 かっては大阪7墓の一つ。ちなみに7墓とは「濱(はま)」、「梅田」、 「葭原(よしはら)」、「千日」、「蒲生」、「鳶田」、「小橋」とのこと。
- 桜は2~3分咲きだったが、藤田伝三郎の庭の梅がきれいでした。又、其の庭の広いのには驚きでした。球場ぐらいは十分あったと思います。尚、同氏は五代友厚等と関西財界の発展に尽力、南海電鉄、関西電力、三和銀行、東洋紡、毎日新聞、大阪商船等の経営に携わったとの事、又、高級宴会場「太閤園」は同氏の邸宅だったとの事。
- 桜は8m空けて植えないとうまく育たない。枝が半径4mの幅で広がるので、8m以下の空間では、枝がぶつかって育たない。従って、吉野の桜は永くは持たない。又、根も枝と同じ半径4mぐらい広がるので、桜の近くを歩いてはいけないとの事。
- 川の右岸、左岸の呼び方。 川下に向かって、右が右岸、左が左岸と決まっているそうです。
もっといろいろな場所にも行ったのですが、又、説明も聞いたのですが、印象に残っていることだけ記しました。
コメント
コメント一覧 (2件)
大阪も知らない所が多く 造幣局の通り抜けは毎年行きますが京橋近辺は歩いたことがありませんので 藤田伝三郎さんの庭園は是非行きたいと思います
情報 有り難うございました
一番最初の写真が庭園の門ですが、個人の庭の門としても、一般公園の門としても少し変ですがこれはお寺の門をそのまま使っております。実は昔ここに大長寺がありましたが、淀川の洪水で流されて大長寺は残った門も含めて寺の境内ごと全て藤田伝三郎に売却。そんな訳でこの庭園(公園)は寺と境内の跡だそうです。梅に目をとられてこの公園に桜があったか記憶がありません。行かれる場合は傍にあるらしい藤田美術館にでも電話されて桜の有無を確認された方が良いかもしれません。参考までにこの美術館には国宝9点、国の重要文化財50点等、計5000点があるそうです。
尚、大長寺は近くの現在地に移り、小さくはなりましたが、上掲写真のように大阪新四十八願所として存続しております。