先日2月15日から冬の小樽に出掛けて、久し振りに雪明かりを楽しんできました。家内は毎年ボランティアで参加していますが、私は10年ぶりでした。
小樽に滞在中、偶々マリンホールで、昨年5月に文化庁から「日本遺産」に認定された「炭鉄港」の記念フォーラムが開催されていたので、出席しました。
少し紹介しておきたいと思います。
「炭鉄港」とは、空知地方の「石炭」、室蘭の「鉄鋼」、小樽の「港湾」、それらを結ぶ「鉄道」、これらが近代北海道を築く基盤となったストーリーが日本遺産として認定されたのです。
「炭鉄港」を物語るとき外せないのが薩摩藩(鹿児島)の存在ですが、そのとき手渡された資料によると、その歴史を紐解くと一人の人物が浮かぶと紹介されていました。
19世紀、欧米列強は中国でのアヘン戦争など、アジア各地でその植民地化を進めていました。
1851(嘉永4)年に薩摩藩第11代藩主となった斉彬は、富国強兵、殖産興業の推進を掲げて、領内に大砲の鋳造や造船、ガラス、紡績などの工場群を設け「集成館」と名付けました。さらに斉彬は1855(安政2)年に「蝦夷は日本の宝蔵なり」と開拓計画を構想、調査を家臣に命じます。
当時、藩は鎖国下にあっても琉球王国を通じて清(中国)との貿易を拡大し、巨利を得ていたと言われます。その輸出物は、北前船から得た蝦夷の海産物、なかでも良質の昆布は甲状腺の薬として重宝されていました。蝦夷地調査はその3年後、斉彬の死によって頓挫しますが、その思いは「殿の遺訓」としてその情熱を家臣たちが引継ぎ、後に北海道開拓の担い手となりました。
1869(明治2)年に北海道開拓使が設置されて活躍したのは、黒田清隆(第3代北海道開拓長官)、調所広丈(札幌農学校初代校長)、村橋久成(麦酒醸造所建設の立役者)、堀基(北海道炭礦鉄道の創設者)ら、多くの30代薩摩出身者でした。元藩士たちが抱いた北海道開拓という夢は、フロンティア精神の礎となりました。
約1500km離れた北の地と南端の薩摩との強い結びつきは、西郷隆盛や大久保利通らの人材を育てて幕末の名君とうたわれた島津斉彬の存在があってのことと知り、歴史の人のロマンを感じた次第です。
(一部資料より抜粋)
コメント
コメント一覧 (3件)
昨年は、北前船のシンポジウムを見逃し(関係者に限っての開催だったそうですが)、今年もまた「炭・鉄・港」を聞き逃しました。アンテナがまだまだです。それにしても、黒田清隆、調所広丈以外の人は知りませんでした。薩摩の人達が随分関与していたんですね。
合田さんもおいでだったのですね!
ご挨拶もせず失礼いたしました。
メルヘン交差点にあるオルゴール堂の本館は、北海道初の株式会社とされる共成株式会社(当時は米穀商)の本社ということは承知しておりましたが、フォーラムでは同社を興した沼田喜三郎が、雨竜郡沼田町の開祖だったエピソードが紹介されていましたね。
個人的には合田さんの顔が真っ先に思い浮かびましたが(笑)、人物や会社などにフォーカスして歴史を掘り下げていくと、広域的でのつながりも見えてくるということを実感しました。
手島会長、富樫様 コメント有り難うございました。
滞在中にフォラムの開催があり誘われて参加しました。良かったです。
沼田喜三郎開祖の沼田町では、毎年8月末に喜三郎の出身地、富山県小矢部市から伝承された「夜高あんどん祭り」が行なわれます。八雲町の「八雲山車行列」、斜里町の「しれとこしゃりねぶた」と並び、北海道三大あんどん祭りと言われます。私も一度見物に出かけました。賑やかでした。