今年の2月5日、3月8日、3月12日、4月12日の4回にわたって寺島様よりご投稿いただきました「現如上人(第22世法主)北海道巡教錦絵」4枚のうち、3枚の説明文と歌が北海道人の名前になっていたこと、そしてその北海道人は松浦武四郎のことだと記されていたのを覚えておられますでしょうか。
私はこの記事を寺島さんから頂いた時に、「北海道という名は松浦武四郎がつけたのだ」と言われ吃驚しました。と言いますのは、何時であったか、だいぶ昔になりますが、北海道はなぜ県が就かないのだろうと不思議に思ったことがあったからです。そんなわけで此の度、松浦武四郎についてネットで調べてみたのでご紹介させて頂きます。
そして記事を読みゆくうちに松浦武四郎という人の、しいたげられた民族アイヌに寄せる暖かさもわかり、又、北海道の地名にアイヌ語が多いのも松浦武四郎のアイヌ民族に寄せる愛情の結果だとわかり、思わず嬉しくなりました。
以下、ネットの記事の抜粋です。
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…時代は江戸から明治に変わると,6度の調査による詳細な記録と地図を作った武四郎は,当時もっとも蝦夷地に詳しい人物として知られていた。大久保利通の推薦もあって明治政府に開拓使が置かれると,長官,次官につぐ開拓判官という役職に任命される。
明治2(1869)年7月,武四郎は「蝦夷地」にかわる新たな名称,国名(現在の支庁名に相当),郡名に関する案をまとめ,政府へ提出したが,道名案の一つが「北加伊道」であった。政府はこれを採用し,「北海道」と字が改められることになるが,武四郎が政府へ提出した上申書には,「カイ」とは「熱田大神宮縁起」の記述に出てくる「加伊」という名称とともに,アイヌの長老から聞いた話しに基づき,アイヌ民族を指す言葉が「カイ」であることが記されている。
つまり,「北加伊道」とは,北にあるアイヌの人びとが暮らす大地である,という先住の民であるアイヌ民族への思いを込めて考えられたものであった。
なお,当時の武四郎は,北の海の世捨て人を意味する「北海道人」という雅号を使っていたため,「北海道」という字を使うと,自分の雅号を名称にするなどおこがましいという批判が出るので,それを避けるために,「熱田大神宮縁起」に出てくる「加伊」の文字を用いたとされる。武四郎が開拓判官に登用されたことを妬む者も多かったのである。
武四郎はまた,北海道は大変広いために,郡をいくつかにまとめた国(現在の支庁に相当)と,郡の名称についても,アイヌ語の地名に基づき撰定案を考えており,地名はその土地の歴史であり,文化であるという観点から,アイヌ語地名を尊重する方針で取り組んでおり,「北海道の名づけ親」と言われる由縁はここにある。
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