台湾に残る日本のインフラ遺産

本稿は、2015年3月発刊の、北海道大学関西同窓会、関西エルム会会報73号に寄稿したものを、同誌編集委員会の承認をいただき転載する。

明治28年(1885年)日清戦争終了後、下関条約により台湾の割譲を受けた日本政府は、精力的に現地のインフラ整備を進めた。その殆どは、現在も台湾国民から感謝されつつ現役として活用されている。

一昨年の暮れに、大学の同期会でその話をしたところ、是非訪問したいという希望者が数人集まった。メンバーの中の一人は、筆者も知らなかった施設を訪れることを、永年熱望していたという(行政院農業委員会茶葉改良場)。当然、そこも訪問対象として組み入れ、昨年11月の訪問の旅となった。
メンバーは、北大衛生工学科第七期卒、上田、小林、岡本、手島。

図1. 台湾での訪問先

図1. 台湾での訪問先

 

1.行政院農業委員会茶葉改良場魚池分場

南投県魚池郷に位置する“日月潭”は、台湾最大の湖で人気の観光地。大正7年(1918年)、当時の台湾総督、明石元二郎と台湾電力株式会社により水力発電所を建設する計画が立案され、紆余曲折の末1934年ダム湖と水力発電所が完成した(現在でも台湾の水力発電量の半分以上を占めているという)。

この湖の傍らに、昭和10年(1935年)北海道帝国大学農学部農学実科を卒業し、翌年台湾総督府中央研究所に赴任した“新井耕吉郎”が、“台湾紅茶”を作るべく研究を進めた「魚池紅茶試験支所」があり、戦後は中華民国の施設となり、標記の名称となった。

新井は、標高800mで、日月潭からの霧が常にかかるこの場所が、紅茶栽培に最適であるとの確信のもとに茶葉研究を進め、それまで輸入に頼っていたセイロン紅茶の栽培に成功した。

現在も農場、試験場、資料館があり、新井の記念碑、遺品等が残されている。

新井は、終戦後も台湾への思いを捨てがたく、妻子は日本に帰し、自身は技師として残留する道を選んだが、1946年マラリアにより客死する。

この施設は通常一般には非公開であるが、事前に北大の後輩からの要望である旨の依頼状を提出して、見学を許された。引率していただいた技師“蘇 永貴”氏が長時間にわたり案内、説明を行ってくれた。彼によると“農林8号”と“農林18号”が品質良好で、それぞれ商品化され、国内のお茶屋で販売されている。

我々も、購入してきたがなかなか美味しい紅茶である。この日の晩餐は、台北市内にこの店ありという、“鼎泰豊”の行列に並び小龍包、焼売を堪能。

写真1. 茶葉試験所

写真1. 茶葉試験所

写真2. 茶園風景

写真2. 茶園風景

 

2.嘉南大圳と八田與一紀念館

札幌農学校第2期生の一人、“廣井勇”の東京帝大時代の弟子“八田與一”が設計した、「烏山頭水庫(ダム)」を尋ねた。注1)

八田は石川県出身、明治43年(1910年)東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木科の技師として赴任。

大正7年(1918年)、嘉儀、台南にわたる嘉南平野の灌漑事業を任され、のちに“烏山頭ダム”と呼ばれる、有効貯水量1億5,000万㎥の大貯水池の設計、施工を担当した(1920~1930)。

このダムから張り巡らされた水路は16,000kmにもおよび、それまで塩害に苦しんでいた、嘉南平野は沃野と化した。この水利施設全体が“嘉南大圳(かなんたいしゅう)”と呼ばれている。

ダムの工法は、世界でも珍しい“セミ・ハイドロリックフィル工法”と呼ばれる、コンクリートをほとんど使用しない手法であり、ダム内に土砂が溜まりにくくなっており、現在に至るも立派にその機能を果たしている。

ダムの傍らには、我々も宿泊した“烏山頭湖境渡假會舘”という日本でいえば国民宿舎のような施設があり、窓からはダム湖水が眺められる。レストランでの食事はまずますであったが、冷蔵庫に赤ワインが一本だけあるのを見つけ注文したものの、それまで誰も注文する客がいなかったとみえ、コルクが乾燥していて壜の中に細かく崩れ落ちてしまった。フィルターは無いか?なければ茶漉しでもと大騒ぎ、これも楽しい思い出である。

1939年総督府に帰任した八田は、1942年陸軍の命によりフィリピンに向かう途中、輸送船・大洋丸が米軍潜水艦に撃沈され戦死。夫人“外代樹”も敗戦後の昭和20年9月1日、烏山頭ダムの放水路に自らの身を投げる。

近くの“八田與一紀念園區”には、八田宅など四棟の家屋が再建されているほか、資料館には、古写真、夫妻の悲劇の顛末などが紹介されている。

2011年の紀念園區の完成式典には、馬英九総統や石川県出身の森喜朗元総理が参列した。

ダムを見下ろす小高い森には、與一の銅像と夫妻の墓が安置されており、未だに花や香華が絶えない。この銅像は、1931年のダム完成時に地元の人々によって作られたが、戦時中の日本軍への供出、戦後の国民党の日本施設破壊命令にも拘らず、住民有志によって匿われ、1981年再発見されたという。

写真3. 烏山頭ダム全景

写真3. 烏山頭ダム全景

写真4. 八田輿一銅像

写真4. 八田輿一銅像

 

3.台灣糖業博物館

日清の戦役後、第4代台湾総督・児玉源太郎の命により、時の行政長官・後藤新平、殖産局長・新渡戸稲造らが、台湾の殖産に最も適するのは製糖業であると決断。明治32年(1889年)、三井財閥と宮内庁が大株主となり、当時の日本製糖株式会社の専務、技師長であった“鈴木藤三郎”に「臺灣製糖」を設立させ、鈴木は初代社長となる。

彼は、安政2年の生まれ。遠州周智郡森町の菓子商から身を起こし、明治16年それまで輸入に頼っていた、精白糖の製造法を発明、鈴木製糖所、日本製糖株式会社を起こし“日本製糖業の父“と呼ばれる。寺子屋しか出ていない彼であったが、生涯特許取得159件、豊田佐吉と共に発明王といわれた。

 

彼が、台湾全土をくまなく調査し、最初の工場立地を選択したのが、高雄に近い“橋仔頭”現在の高雄市、橋頭区である。

工場は、1902年より稼働し、1999年にその役目を終えるまで、日量200トンの精製糖を製造し、台湾の第一次“工業革命““糖金時代”の一翼を担った。

現在工場は稼働していないが、ほとんどの建物、生産設備はそのまま残り、順次再整備され、“糖業博物館”としての姿が整いつつある(2007年博物館として開業)。糖業文物館、糖業流程館には、新渡戸稲造先生の銅像や、児玉、後藤、新渡戸、鈴木らを顕彰するパネルが所狭しとばかり展示されている。

また、八田與一紀念園區と同様、旧工場長宅なども当時の姿通りに再建されている。

敷地の中心には、鈴木藤三郎が工場の平安を祈念して作成した、聖観音像が日本を向いて安置されており、参拝する人々が絶えない。同じ像は四体作られ、一体は藤三郎の故郷・森町に現存し、あとの二体は、鎌倉の別荘と江東区砂町小名木川沿いの、旧日本製糖の敷地にあると伝えられる。

名物の糖蜜のかかった氷あずきに舌鼓を打ちつつ見学を終えた。今宵の仕上げは高雄名物の海鮮料理か?

写真5. 台湾糖業博物館の入り口

写真5. 台湾糖業博物館の入り口

写真6. 台湾糖業博物館での展示

写真6. 台湾糖業博物館での展示(顕彰パネル)

写真7. 鈴木藤三郎建立の聖観音像

写真7. 鈴木藤三郎建立の聖観音像

 

4.二峰圳ダム 注2)

時代はさらに下る。1920年臺灣糖業が台湾南部屏東県に本社、工場を移転するに際し、工場用水と流域の灌漑用水の確保が課題となった。周辺には、いくつも河川があるが、乾季の11月から翌年5月までは渇水となり表流水がなくなる。

東京帝国大学農業土木科を卒業し、大正3年(1914年)臺灣製糖に入社した“鳥居信平”に水源調査の命が下る。鳥居は、静岡県袋井の出身、四高では八田與一の3年先輩である。

大正7年(1918年)、いよいよ水源調査を開始する。化学色素ウラニンを使った伏流水量調査、地盤構造、勾配などの諸条件を調べた結果、ガルス渓とライ渓という二つの川の合流点に地下堰堤を築くことを決定する。

工事は大正10年(1921年)6月から始まり、大正13年(1923年)5月に取水を開始した。設計取水量は、豊水期250,000㎥/日、渇水期でも70,000㎥/日。この灌漑用水によりそれまで荒野であった下流の屏東平原が“二峰圳“と呼ばれる沃野となり、それまで山地に籠っていた原住民“パイワン族”が、甘蔗営農に従事するようになった。現在の”來儀郷“である。

村には、立派な“二峰圳歴史文物館”も建てられ、多くの資料が展示されている。台湾の大手電子産業・奇美グループ総帥の許文龍氏は、茶葉改良場に新井耕吉郎の胸像を4体寄付しているが、この來儀郷にも、鳥居信平の銅像が同氏から寄付されている。

残念なことに、一昨年、昨年と大型台風がこの地方を襲い、ダムは石と瓦礫に埋もれ、今ではその姿を直接見ることはできない。更に昨年の堰堤改修工事の折には、工事業者がそれとは知らず、堰堤の一部を破壊するという事故も起こった。しかし、村の水路には水量こそやや減ったものの、未だに清流が流れている。また少し下流では、大規模な新しい取水ダムの建設も始まっている。

注2:本稿は、その多くの部分を、“平野久美子著「水の奇跡を呼んだ男」産経新聞出版 H.21”と、“国立屏東科技大学教授 丁 澈士博士「二峰圳の工事について」2013年10月”に依っている。

 

図2. 渇水時の伏流水の動向勾配線 

図2. 渇水時の伏流水の動向勾配線

図3. 地下ダムの構造断面図

図3. 地下ダムの構造断面図

写真8. 現在の二峰圳

写真8. 現在の二峰圳

写真9. 來儀郷の歴史文物館にて

写真9. 來儀郷の歴史文物館にて

 

終わりに

橋頭の“糖業博物館”の存在を知ったのが、今から7~8年前であったろうか?静岡県周智郡森町の教育委員会の方に教えていただいた。筆者は3年前に台湾糖業を訪れ、更に一昨年は、藤三郎没後100周年記念事業として、町長をはじめとする30数名の森町の方々と一緒に、糖業博物館、二峰圳ダムを訪れた。その話を友人たちとしているうちに3回目の訪問となった。今回は、存在は知ってはいたが、行くチャンスの無かった“烏頭山ダム”と、その存在も知らなかった“茶場改良場”にも行くことができた。

今回訪れたのはわずか4か所であるが、台湾全土にはこのようなインフラ遺産が随所にあるという。台湾の人々は大いなる感謝を以て、先人たちを称えその偉業を語り伝えてくれているが、肝心の日本人からは忘れ去られようとしている。残された人生の中で、都度伝える努力をするのもなにがしかの縁のあった筆者の役目だろう。(終)

(2015年1月)

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 日本の植民地政策が良かったのだろうと想像すると同時に派遣された人たちが優秀で立派だったとうれしく思いました。
    時間があれば、日本と台湾の歴史をゆっくり調べてみたいなという気もいたします。