栖原家と択捉島 その6(最終回)

栖原家の缶詰製造所と人工孵化

文政四年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に還すと、高田屋嘉兵衛は場所を弟金兵衛にゆずって郷里淡路島に隠居した。(文政十年没)

弟金兵衛が密貿易の疑いを幕府から受けて失脚したのは天保二年(1831)で択捉島は高田屋の手から離れてしまう。この後は漁場請負人に変遷があり、いずれも遠隔の地であるが為に経営の困難が理由で遂に明治に至るのである。栖原屋が登場したのは択捉島にとっては第二の場面を迎えるという事になる。

高田屋によって開かれた択捉が、栖原によって復活である。この頃になると村方と和人の混血がだんだん純に近くなり、和人の定住者も増えてくるが、明治八年、樺太・千島交換条約が結ばれると栖原は樺太から離れたので、なお一層の力を択捉島にそそぐようになるのである。

蝦夷地が北海道と改まり、開拓が盛んな明治十二年紗那(しゃな)缶詰所が開拓使によって設立されたが、交通不便、採算が合わぬ理由で事業が中止になったが栖原家はこれに目をつけ出願して払下げを受け、択捉島の鮭鱒・カニ缶詰の基礎を作ったのは明治二十年であった。鱒の缶詰はフランス向けの輸出不振、漁獲不漁等と変遷もあったが、海軍が製品を引き受けてくれたりして援助し、終戦の頃は紗那、別飛、紗万部、タニムショと散布半島を取りまく四工場があったのは国内では偉観であった。

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択捉の鮭鱒は高田屋が創開以来乱獲の侭に任せられ、其の繁殖は少しも考慮されず、ただ天然孵化だけで満足し、人工孵化などは夢想もしなかった。漸く明治初年になって開拓使が、人工孵化の必要性を認識し、勧誘奨励したが、当時の民間業者は机上の空論として見向きもしなかった。もっとも当時の漁業者の多くは孵化に関する知識も、経験もなく、しかもその設備に多くの資本が要るので、進んで当局の奨励に賛同する者がなかったのである。そこで開拓使では民間に先んじて、千歳に孵化場を設け、その範を示した。樺太の漁場を失い、ウルップ島の漁場を放棄した。経済的逆境にあっても栖原はこの鮭鱒漁業の将来を考え、国産百年の大計を確立するために、明治二十三年択捉島遠路沼に道庁技師藤村新吉の指導を仰ぎ、鮭鱒人工孵化場の建設、また建設に先立ち雇人島崎健太郎を、栖原の計画に賛同する地元の高城重吉は姻戚の有松己代を千歳に派遣し、斯業の研究に従事させ、一か年の研修を経て技術習熟したるを以て、彼等の帰島後、島崎は孵化場主任として事業を開始したのである。

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初年度先ず鮭・鱒五十万粒の孵化を行い、明治二十八年には、三百万粒、大正二年には五百万粒の孵化をし、漸時好調の孵化成績を上げている。一方漁獲に於ては明治二十三年度の択捉産鮭鱒は未曽有の豊漁だったが、二十四年度は前年に反し、甚だしい不漁に終わり、その後、年を追って漁獲減少を示している状態で、漁業者は人工孵化の重要性を痛感するに至り、北海道の現在の鮭鱒漁業の盛んなるを見るにつけ、孵化事業に挺身率先した栖原家の功績を称嘆するものである。

参考

高城譲吉・・・・栖原家は択捉・留萌のアイヌに漁具と資金を貸与して自立を支援する。その中で、択捉のアイヌで日本名、高城重吉氏、何度も経済的窮地を栖原家の援助で救われ、ついに富豪となる。

重吉は天保五年(1834)択捉島の紗那(しゃな)で、代々のアイヌコタンの首長の子に生まれた。重吉が成長した当時、択捉には伊達林右衛門と栖原角兵衛による共同漁場が開かれていた。

重吉は雇われ船頭になり、腕と才覚を発揮、明治十三年、栖原の支援で自らも漁業経営に乗り出し、最初のシーズンに約二百石余の鱒を捕獲して独立したのである。鮭・鱒の建網免許も手に入れ、また鮭鱒の人工孵化事業を栖原と共に始めるのである。何度もつまづいたが、再び栖原の支援で経営を続け、業績を回復した。最盛期には、五万円もの財産を築いたと云う。明治二十八年に没した。

参考

五万円・・・・現在の貨幣価値で五億円以上。

参考文献

栖原家家譜  嗣子栖原栄助茂隆謹識
栖原角兵衛履歴
北海道及び樺太に於ける栖原家の事業  遠藤吉平述
北海道樺太の漁業開発と栖原角兵衛   茶碗谷徳次編著
北辺国境交渉史            渡瀬修吉著
北海道の歴史と文化 その視点と展開  北海道史研究協議会編
地方風土記 択捉島地名探索行     鹿能辰雄著
松前町史
稚内市史
利尻富士町史
樺太史物語              宮崎雷八著
エトロフ島

 

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