栖原家と樺太(北蝦夷) その4

樺太買収策の頓挫

明治六年二月、副島外務卿は台湾生蕃(せいばん)の我が漂流民を惨殺せる事件の処理を談判するために、全権大使として清国に差遣された。副島が其の使命を果たして帰朝したのは七月二十五日であった。その後、駐日仏国公使バルテルシーは副島に対し、駐ロシア大使からの報告によれば、ロシア政府部内並びに宮廷筋において、ロシアは日本の要望に応じて、樺太を日本に売り渡すことに決せりとの情報を知らせてくれた。ところがこのとき既に廟堂の議は、千島・樺太の交換を決定した後であった。参議板垣退助は副島を訪問し、千島・樺太交換の廟議の決定を告げたので、副島は驚き、慨嘆し、挽回の手段を種々尽力したが、時は既に遅かった。ロシア代理公使ビウツオフは、早くも我が廟議の決定を諜知して、副島外務卿を訪れて云うには、樺太買収のことは独り貴官のみ唱うるところ、貴国政府は却って樺太を我がロシア国に譲渡するに決定したと聞く、然らば貴官も速やかに其の自説を放棄されることを望むと。

黒田清隆の樺太放棄論廟議(ビョウギ)を動かす

明治六年十一月、開拓使次官黒田清隆は、長文の建白書を奉った。其の建白書は世に樺太放棄論として伝わるもので、其の文章雄渾なりと雖も、其の論旨は必ずしも当たらず、ロシア国の侵略を畏憚(いたん)して偸安(とうあん)を策し、皮相の観察を以って樺太開拓の前途を極度に悲観し、力を無用の地に尽くすよりは、むしろこれを放棄するほうが良いと極論したものである。

然るに当時の廟堂の諸侯はその実情を知らず、当事者の言に盲従して国家の大計を誤り、千島・樺太交換を敢えてしたことは、誠に痛嘆に堪えない。もし建白者にして開拓の進展著しい今日の樺太を見たならば、その不明を恥じること必然である。建白書を要約すれば、樺太の地は広く、人口稀少にして、経費が嵩み、其の気候寒烈、土地磽确(とうかく)にして栽培は不能である。漁猟の利はあっても衣食に足らず、石炭を産するも得失相償わず、力を無用の地に用いるより、むしろこれを捨つるに利ありと為すものである。

徹頭徹尾浅薄皮相の観察を以って、天然資源無尽蔵なる国土を、芥塵の如く惜しみなく棄て去ろうとする、其の無謀を憐れむと共に、利刃を強者に与えて危険を恐るると同一の感がある。樺太放棄はもとより日本にとっては敗北外交である。黒田の如く、樺太の保持は無益であり、むしろ有害であるという放棄論を唱えたのは黒田一人である。彼の主張を支えたものは、パークス英公使の放棄勧告である。

米国も日露間の国境交渉の仲介斡旋を依頼されたが、その後中止方の申し入れがあったので、米国は独自の見解を発表して、米国も日本に対し樺太の放棄を勧告している。何れも今ロシアと戦争すれば日本は負けるから、北海道に後退するのが賢明であると云う勧告である。黒田はこれらの意見を背景として、廟議を放棄説に導いたものであった。

(参考)
○廟堂(びょうどう)・・・ 朝廷あるいは時の政府
○偸安(とうあん)・・・・ 一時逃れをすること
○畏憚(いたん)・・・・・ 恐れおののくこと
○磽确(とうかく)・・・・ 石ころだらけの土地
○利刃(りじん)・・・・・ よく切れる刃物

<続く>

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 樺太について、こんな歴史があったなど、まったく知りませんでした。
    この時、もし、日本の領土になっていたらと、残念でなりません。