キリマンジャロ61

サバンナを走る交差しない一直線の道路、マサイは牛追いの赤い布、胸はって道行く女性・頭の上の大きな荷などを車窓に見て、スワヒリ語耳に面白く、向かうは来てみたかった「キリマンジャロの雪」。

健康診断書を書いてくれた医師、マラリアには一番効くと奨める金鳥を、忌避剤ディープ、ムヒと共に売るほど持って出たが、ナイロビ(ケニア)もマラング(タンザニア)も標高千五、六百mの高原、蚊の備えは空振りだった。

出発の朝、マラングゲート千五百五十mに勢揃いした一行は、登山参加者十名、チーフガイド二名、サブガイド三名、ポータ二十名の大パーティとなった。

そんなに多く遭遇したわけではないが、猿も小鳥もカメレオンも危害を受ける事が無いのだろう、登山者達が取り囲むようにしてシャッターを切っても、逃げる素振りも見せなかった。

下るパーティとすれ違いざま、爽やかな表情で何度もグッドラックと声をかけられた。彼らは登ったのろう、大丈夫だ登れる。細やかな自助努力として登り始める前日から酒を断ってもいるし。

登山開始三泊目のキボ・ハット(小屋)四千七百mでは一睡もできず午前零時出発。速い!話が違う、ポレポレ(ゆっくりゆっくり)なんとかなるさ、登山ゲート下のホテル(小屋?)の従業員たちは口々に言ったのだ。ペースを落とそう、ジリジリと後退したが、ガイドに前に追いやられた。これではばててしまう、二度三度と後退、ゆっくり後尾につきたいと意思を示したが、問答無用でそのつど前へ押し返された。後退四度目、リュックをガイドが取り上げ、一瞬楽になる、とたんに背に寒さが走る。ザックを取り返し雨具上下を重ね着した。この間数分の素手、たちまち両手指先凍えて、口にくわえるようにして息吹きかけても痛みは消えなかった。

不去不来不生不滅不常不断不一不異、おまじない心中に誦し呼吸を整えようとするが、物理的苦痛に霊験あらたかならず、諸手の杖にすがってさながら苦行のありさま、口から心臓が飛び出しそうになるのを耐えに耐えれば、胸突き八丁忽然開け、倒れこんだはギルマンズ・ポイント五千六百八十五m。

あとは火口すり鉢のへり上斜面を回り込み、ウフル・ピーク五千八百九十五mまで二百十mの高度を稼ぐのだ。ガイドが叫ぶ、ここから先はプッシュしない、行く者は行き、やめる者はやめよ。前方にキボ峰はアフリカのサミットへの道が続いている。高度がつらく当たるのか、はたまた緩斜面が味方になるのか、誰が行かないものか!

頭上に迫り降る満天の星々もいつしか消えて、東方雲海の水平線は白々と明け、赤いと言うより黒い御来光を拝したてまつり、這うように、しかしマイペースで頂上をめざす。のぼる朝日が氷河を染めて、眼下に、別ルートから急斜面に挑む好き者長蛇の列が、蟻の行列の様に小さく蠢いて見える。

キリマンジャロ山国立公園の発行した登頂証明書によれば、2006年9月28日午前7時、ご覧の通り疲労困憊の体たらく。がともかく、今回の遊びの冗談かつ唯一の眼目、頂上を踏んでキリマンジャロ(缶コーヒ日本から持参)で乾杯しようは成った。

 

 十万円やると言ったらもう一度登るか、四人同行した女性のうち三人が手を挙げた。元気なものだ、十万円出して温泉の方が良い、新調した登山靴・シュラーフ・ザック・ストック・ヤッケにヘッドライトは泣くだろう。黄熱病の予防注射(証明書付き)八千五百三十円も一回では高い。もう何回かはお世話にならなきゃなるまい。月山も鳥海山もまだだ。

 ドバイで中部へ帰る他のメンバーと別れて関空に降りた。公衆電話に十円硬貨、今着いた、あら遅かったのね、声音でたいして異状の無いことが知れた。

小生が今少し生きの良かった61歳の一日であった。

 

 

 

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • キリマンジャロ登頂記念ブログ 懐かしく拝見しました
    私は25年ぐらい前に登頂してきました ケニヤの山で高度順応しタンザニアに入りました
    やはり、労災病院でコレラ、と黄熱病の注射をしました
    頂上ではダウンコートを着ましたが 9月でしたが暑くも無く寒くも無く 爽やかだったような気がします 太陽が下から出てきたのと青い氷河に感動しました 
    タンザニアの街中でジャカランタの紫の花が満開で 最近 日本では6月にその花を見ました
    息子さん同行とのこと最高ですね
    又、登山ブログ載せてください

  • 合田朗枝様

    コメントありがとうございます。
    今にして思えばすいぶん楽しい遊びでした。
    次回、登山は無理でも、何か別の報告ができるかも知れません。