小樽・共成の話

10月9日から12日まで小樽へ行ってきました。

私が10年間籍があった共成製薬が毎年10月10日に行う共成稲荷祭と併せて予定されたOB会に出席するためでした。

 共成製薬は小樽に本社がある北海道では数少ない製薬会社でしたが、昨年4月に同じグループの(株)カイゲンと合併し、カイゲンファーマ(株)(本社 大阪市道修町)と社名が変わりました。

 前身の共成(株)と合わせ120年余続いた「共成」という社名が消えたわけです。

 前身の共成(株)は小樽の古い企業史に残る会社のひとつでありますので、頭の片隅にでも残してもらえればと思い、少し触れておきたいと思います。

 ….前身の共成株式会社は、明治24年(1891)に米穀・精米を事業目的として設立された。創業者は、富山県出身の沼田喜三郎である。

 特筆すべきは、会社組織を「株式会社」の形態で設立したことである。日本で最初の株式会社は、明治6年(1873)設立の第一国立銀行とされるが、共成株式会社を北海道における株式会社の嚆矢(こうし)と紹介している書物がある。

 新会社は急速に人口が膨れ上がる北海道とその核として繁栄する小樽の発展に歩調を合わせるように、急速に業容を拡大させていった。

 創業10年後には道内各地に支店・精米工場を設け、既に東京以北で最大の米穀会社となっていた。

 その繁栄ぶりの一端が伺われるのが、明治45年(1912)に建築された赤レンガ造りの本社社屋である。この建物は、後に昭和30年共成が解散することになった時、共成の手を離れた。その後は時代を経て、現在は小樽市の歴史的建造物に指定され、「小樽オルゴール堂」として多くの観光客で賑わっている。

 余談になるが、共成の創業者沼田喜三郎は、空知管内沼田町開拓の祖としても、今に名を残している。社長を辞任した後、雨竜本願寺農場の開拓に10年間専念した。大正11年4月北海道庁は開拓功労者の喜三郎の名にちなんで沼田村と命名した。

 沼田町では、毎年8月末に沼田喜三郎の出身地、富山県小矢部市から伝承された「夜高(ようたか)あんどん祭り」が行われている。

八雲町の「八雲山車行列」、斜里町の「しれとこ斜里ねぶた」と並び、北海道の三大あんどん祭に数えられる。

 一方、明治・大正・昭和にかけて繁栄を続けた共成も、昭和10年代になると日本は戦時体制への移行が加速した。米穀統制の圧力が強まる中で、米穀事業の継続が厳しくなっていった。

 多角化を進める中で、当時の社長寿原英太郎(後に共成製薬初代社長、戦前は衆議院議員、戦後は公選による初代小樽市長)は、北海道の昆布から抽出されるアルギン酸に注目した。

昭和12年に函館の北海道海藻研究所に社員を派遣して実験を開始した。これが医薬事業の誕生につながるのである。

そして、戦後の昭和22年10月に浮腫性疾患の治療剤で、初の医薬品製造の許可を受けた。その後も大学・病院の協力を得てアルギン酸製剤の開発を進めたが、次第に共成本体の事業継続が困難となり、昭和30年(1955)解散を決めて半世紀を超える事業が終焉を迎えた。

 そして、同年4月に医薬事業に「…何とか「共成」の名を残して」と将来を託して、この部門を継承して分離、設立されたのが、共成製薬であった。

 昭和48年に堺化学のグループ会社となり、平成17年に創業50年を迎えた。

 今回医薬事業再編による合併によって、共成という名が残るのは構内にある共成神社だけになってしまったが、これも時代の流れか

 

 毎年10月には共成稲荷祭とOB会に元気である限り出席するつもりであります。

                           以上                             

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 1:5年半前に初めて小樽の出世前広場でたまたま入った歴史館で共成(株)のコーナーを見たときの感動を今も思い出します。
    2:私の母方の祖母は沼田喜三郎と同じ富山県小矢部市の出身だったことも、そして又、私自身も、かって富山県で仕事をしていたとき、小矢部市も何回か訪れていたことも、沼田喜三郎に興味を持つきっかけになりました。
    3:数年前に旅行でJR沼田駅を通った時も「ああ、このあたりが、沼田喜三郎が開拓した所か」と思ったものでした。
    4:そんな訳で、共成の名が消えることは、私も大変残念な気持ちでいっぱいです。