55年目の同窓会

平成26年9月28日、小樽市内、ニュー三幸で、長橋中学卒業55年にして、初めての同窓会が催されました。同窓会が始まり、クラス別に席が決まっても、お互いに誰なのかわからず、ゲームをやっているようでした。

女性どうしは名前が告げられると、もう感動で、あちらでも、こちらでも、ひしと抱きあいました。よくぞここ迄、お互いに生きて再会したという思いで、ぎゅっと抱きしめあいました。

東京の桜陽会の幹事と地元の同期が協力して、この困難な、同期会名簿を作り上げたのです。私たちが55年前、どんなすてきな学生生活を送ったか、御紹介したいと思います。

それは、長橋中学の設立と関わりがあります。戦前に小樽には、樽中(潮陵)と庁立高女(桜陽)がありましたが、小樽が発展を続け、人口も増えたので、もう一つ中学をという事になりました。そこで市立中学を作る事になったのですが、これに貢献したのが、板谷宮吉という豪商でした。彼の私財をもって、土地から校舎迄、立派なものが出来上がりました。校門は、石造りの高い柱でした。短い急な坂を登ると、職員専用の正面玄関があり、そのトップには時計がはめられていて、木立に見え隠れしていました。

左は事務室、職員室、理科室、実験室、木工室と続き、外には並行して二面のテニスコートがありました。建物の続きには、音楽室、講堂、体育館と続いておりました。体育館の近くには、部室もありました。

又、右へ行くと、生徒専用の玄関があり、バレーコートと中庭にはさまれた、渡り廊下がありました。奥には全道で唯一の学校用の公式25mプールがあり、3階の高さの飛び込み台がありました。線路側には、コンクリートで出来た三段の観覧席までありました。

この飛び込み台と、ジャンプ台は男子生徒は、一度は飛ぶことを課せられていて、気の弱い男の子には、厳しいものでした。

しかし、戦後、市内に中学が不足しているということで、長橋だけが、高校に昇格できませんでした。でも、それが、生徒には幸せでした。優秀な先生方が、そのまま中学に残られたからです。学長のように品位と威厳を持った校長先生、東大のテスト問題を平気で授業中にさせながら、数学に弱い生徒の為に、やさしい期末テストにしてくれ、どの学生にも優しかった数学の先生、フランス帰りの音楽の先生は、語る言葉もシャンソンを唄っているようで、又、まるで愛をささやいているように授業の楽典を説明して下さいました。他にも理科、体育と個性的な先生方が揃っておられました。

ある友は、ある日、「肩かして」「なぜ?」「思いっきり泣きたいから」彼女は前日バレーの試合で負けていたのです。「いいよ」っていうと小さい私の肩で、背の高い彼女が大きな声で盛大に泣いてくれました。それは、スポーツに遠い私には感動でした。

又、或る友は、学校を出た時、「家においで、スイカあげるから」というので、5,6人でついていきました。すると友はたちまちモンペ姿の農家の娘に早変わり、テキパキとスイカのツルを切って、渡してくれました。大人しい、ニッコリ笑うけど無口な彼女の学校での姿と違う存在感に圧倒されました。

そして或る日、足を骨折した私は、非行少年といわれる2人と、スキーの日、ストーブ当番をしました。けれど彼らは、とてもまめまめしく、世話をやいて気遣ってくれたのです。そんな、のびのびした学園生活は、あの古風な校舎のたたずまいと無縁ではなかったと思われます。

その校舎が無くなった時、それはもう私達の心の中にしか存在しなくなりました。でも、この思いは、皆の胸の奥に秘められて、長い間、私達を支えてくれたのかもしれません。

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 私も長橋中学校でしたが
    1:プールがあった場所、テニスコートがあった場所等ははっきりと覚えていますが、教室や、職員室、等の配置はすっかり忘れていましたが、今、懐かしく思い出しました。
    2:フランス帰りの音楽の先生とは、佐藤六男先生の事でしょうか、数学は山本先生(女性)、英語は宮崎先生、高木先生、国語は平根先生(女性)、理科は水谷先生、体育は岸田先生、美術は氏家先生、保健は佐藤睦子先生、いろいろ想いだされます。