栖原家と樺太(北蝦夷) その2

従来樺太の漁業はアニワ湾全部及び西海岸の南部が主でありましたが、ロシア人が頻りに樺太を窺うを以って幕府は其の奥地を開拓して、これに備えようとして、越後の人松川弁之助、安政三年に進んでその任に当たることを出願し、奥地の差配を命ぜられ、親戚佐藤広右衛門等と計り、自費を以って知床岬北東海岸を拓く、山田文右衛門、佐野喜代作等も出願して、各自その一部分を担当しました。しかし、樺太奥地は交通はなはだ不便にして経費巨額に上り、これらの人々は経営僅か数年にして支えることができず、其の地をすべて幕府に返納するに至った。幕府は自ら開拓を試みるも収支相償わず断念し、その任に堪え得るものを物色するも、栖原、伊達の二家のほか適任者は無しの結論に至り、終に以上の同地を挙げて、栖原、伊達の差配する所となる。(伊達はその後、家事の都合を以って退き、栖原単独にて事業を継続する)しかし、その事業は非常な困難を伴うも、国家の為、損失を顧みず巨資を投じてその事業を継続し、アイヌを撫育し、ますます土地を拓き、百難を排して事業の拡張を計り、また当時幕府は樺太警備のため東北の雄藩、会津、仙台、南部、秋田等の各藩に出兵、警備を命じたが幕府の守備は毎年四月より九月迄の六か月間で秋になれば兵を撤退して帰ってしまうので、冬季は全く警備なしの状態になり、この間栖原家では使用人皆武器を持ち、当家自ら守備警衛の任に当り、ロシア人を撃退し、侵入を防いだのである。慶応三年六月、樺太請負の名称を廃し、漁業出稼を命ぜられる。同年十二月樺太東海岸漁業出稼を命ぜられ、但し名称は出稼と雖も総て以前と変わるところなし、当家が経営した漁場は五十八か所に及んだ。

 

terashima-2015-03-12

 明治四年十月開拓使庁より、樺太州楠渓、西富内の二か所へ諸品売捌方を命ぜられる。同年十月樺太民政役所庁舎の建築を命ぜられ、竣成の上、工費金千四百五十円を献納し、その賞として松前川原町に屋敷地二か所を給はる。明治八年二月開拓使の命により、樺太州栄浜、シララヲロの各漁場を返上する。明治八年五月樺太・千島交換条約締結。開拓使より突如として漁業従事中の樺太を引き払うよう達しがあり、食料品や漁場仕込みの物資の持ち帰りは、官費で輸送に当たる、番屋や倉庫・漁具一式は相当の代価をもって買い上げるということではあったが、約七十年の間、代々心血を注いで経営してきた樺太である。国の政策とはいえ、一片の通達だけで放棄するにはあまりに大きな犠牲であった。しかも、漁期に入っていたため、網はすでに投入されていたのである。しかたなく網を引揚げたが、乾燥する時間がないため、腐敗して棄てなければならなかった。明治五年、政府は地租改正令を公布し、土地所有権の確定を表示するため、同六年、一般に地券状を交付したが、北海道は同七年に下付し、樺太は遅れて同八年に下付する予定であったが、抜き打ち的に樺太をロシアへ引き渡すことになったのある。もし、北海道と同様に同七年に地券状を樺太に交付し、所有権確定を表示していたならば、たとえ樺太をロシアに引き渡すにしても、民間業者は政府によって必ず賠償の途を明示されたであろう。当時経営していた五十八か所の家屋や倉庫などにつき、開拓使庁の官吏広田千秋が立ち会って評価したところ、久春古舟、久春内の西海岸のみで四十八万円にも達していた。他の建物、土地、漁具・漁業権等を含めると損害は百二十万円以上に及んだが、政府は僅かに一万八千円を補償したのみであった。

          続く

 

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コメント一覧 (3件)

  • 樺太に日本人が江戸末期からこれほど深くかかわっていたことは、私もこの年になって初めて知りました。せいぜい間宮林蔵ぐらいが探検に言った程度と思っていました。
     

  • 寺島伸二さま
    苫小牧の一枝さんから連絡をいただきました。
    寺島家に関する記事の掲載年月日をお知らせいただけませんか。
    滝沢恵子(えいこ)

    • 滝沢様へ
      寺島様はパソコンをご覧になられないので、私が下記ご連絡させていただきます。
      2013.6.16
         6.23
         8.4
         8.26
         9.14
         11.6
      2014.2.5
         3.8
         3.12
         4.12
         12.28
      2015.1.19
         2.8
         3.12
      苫小牧の一枝さんは寺島様がご存知の方でしょうか。
      E高橋