栖原家と樺太(北蝦夷) その3

副島種臣外務卿の樺太買収策

 維新政府は1868年(慶応四年九月八日)、明治と改元、首都を東京に移したが、一方幕府の脱走軍、榎本武揚らは箱館の五稜郭に籠り、独立を宣言した。明治新政府は彼等を「海賊之所業」と断じ、「各国政府に於いても厳重拒絶相成、両国政府条約交際之御趣意、混雑無之様取計可云々」と各国政府に対し、叛徒に援助を与えないよう干渉拒絶を要請した。このとき新政府も、ロシアが幕軍の榎本武揚を支持するのではないか心配したが、ロシアは日本の国内問題に干渉することはなかったが、一方ではこの機に乗じ、守備隊の大規模な増強を行い、樺太全島の併蚕を進め、樺太各地で侵略は益々露骨となり、我が千島に迫り、北辺の危機は政府を悩ました。茲に於いて政府は速やかに樺太国境問題を解決しようとし、この調停解決を東京駐在の米国公使デロングに依頼した。ところが英国公使パークスはこれを聞き、彼に諮らなかったことを不快として、却ってロシアの側に好意を示し、樺太全島をロシアの所領とすべしと、我が国に対し干渉的に忠告して来た。この事情を知った米国公使デロングは事態面倒と見て、この調停解決を辞退して了(しま)った。明治四年五月十三日、我が政府は樺太国境問題を解決するため、参議副島種臣を全権大使に任じ、ロシア東岸のボシェット湾に赴かした。ところが、副島の出発後、ロシアより通牒あり、近日東京に代理公使を派し樺太国境のことを論議するので副島全権の渡来は見合わせられたしと。依って副島は、北海道を旅行してむなしく東京に帰ってきた。

 その年七月十四日、副島は参議を罷めて外務卿に任ぜられたので、愈々樺太国境問題を考慮し、米国がアラスカ地方をロシアより買収して、其の間の紛争を解決した故智に倣って、北緯五十度以北の樺太をロシアより買収し、以って久しき紛争を解決しようと思い、或る時この事を大蔵卿の大隈重信に諮り、買収に要する金額の支出が可能かどうか問うたところ、買収に必要な金額は二百万円であったという。大隈は即座にこれに賛意を表し、買収費の支出を承諾したので、副島は大いに喜び、愈々樺太買収の意図を固くした。明治五年十月、副島外務卿はロシア代理公使ビウツオフと会見し、樺太買収の交渉を開始した。ところがロシア代理公使はこの交渉に同意せず、却って千島・樺太交換の得策なことを力説した。これに対し副島は、千島諸島のうち、得撫(ウルップ)、択捉、国後の三島は、我が日本の領地であることは疑いない、もし我が国が今後已むなく大兵を大陸に用ゆる時あらば、貴国はこれを黙認し、且貴国領土内を我が軍隊の自由通行を容認するならば、貴意の如く千島・樺太交換を承諾するであろうと、これは副島の真意は、暗に朝鮮への出兵をほのめかして、樺太買収の目的を達しようとの逆手を用いたのだという。その頃ロシアは中央アジア問題について、英国との間に紛争を引き起こした時なので、日本との交誼を厚くしようとの思いあり、又日本が朝鮮に出兵することは、到底ロシアの堪えうる所でない、むしろ日本の提議を容れて、樺太の買収に応じようとの決心を為したので、副島の外交は其の思うとおりに運ぼうとした。

    続く

この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 1:歴史は、どちらのサイドから見るかによって、変わるものだと思いました。我々が、榎本武揚の立場の本を読む機会が多かったせいか、心情的には、榎本の善戦を期待したものですが、当時の国際情勢からみると、微妙な状態だったのですね。
    2:副島種臣とロシアの駆け引き、面白いですね。
    この年になって初めて知りました。