栖原家と樺太(北蝦夷) その5

樺太アイヌの移住

 樺太・千島交換条約は日本人漁業家に痛手を与えただけでなく、樺太南部居住のアイヌの生活にとっても突然押し付けられた大きな変革であった。しかもそれは彼ら自身のあずかり知らぬところで行われた日露外交の取引きの結果であった。日本国民となることを望むものは樺太を去って日本の領土に移住をしなければならず、樺太に永住を願うものはロシアの国籍に編入される、アイヌが各自の去就を決めるため3年の猶予期間を置く、と定められたのである。政府は当然この条約を履行すべき義務を負っていたのであるが、この時樺太アイヌを移転させないよう内訓(内密にする訓令)を発していた。しかし樺太漁場のうちでも長年栖原・伊達の漁場で働き、日本人に慣れ親しんできた。この頃、樺太における漁業は共同事業者である伊達家が衰退し、実情は栖原一手の引き受であった。父祖の代よりの開拓事業であったが引揚に際し、これらのアイヌは、自然の情として日本の国民となり北海道に移住することを強く希望した。移住希望を申し出たのは百七戸、八百四十一人の男女は、住み慣れた故郷の樺太を後にして北海道に渡っている。彼らは移住地として、樺太に近く島影の見える宗谷の地を望んだ。「土人ノ希望ハ郷里ヲ望ミ得ル地ニ住シタシトノ事ナリシカバ、宗谷地方ヲ選定シテ之ニ置キ、土地、漁具等ヲ渡セリ」(松本十郎談話)と回顧しているように、松本大判官はその願いを容れ、宗谷のメクマの浜にその移住先が選定された。そのころメクマの浜には村名がないため、安堵村と名付け本庁に報告されている。これは郷土を失った樺太アイヌが、樺太の島影の見える第二の故郷を定めて安堵したという事でもあった。ここの選定は大判官松本十郎が石狩、天塩、北見の巡視の途次、宗谷まで来て決めたものであった。十郎の考えは、抑抑アイヌは漁業の民であり、海浜の民であり、少しでも生まれ故郷樺太に近い位置がよかろうということであったが、しかし黒田長官をはじめとして開拓使当局は、彼等が望郷の思いからつい帰島し、果ては日露間の国際問題を起こしはしないかとの懸念から、内陸の石狩川沿岸の対雁(ツイシカリ)に移して樺太の島影から遠く引き離そうとした。こうして石狩集団移住の線は動かしがたいものとなっていった。「松本判官ハ樺太土民ハ海浜ノ民ニテ海漁ヲ主に食セシニ、今之ヲ山谷ニ移シ、懲役同様ノ業ニ駆使セントスルハ惨忍ノ至リナリ」と憤慨している。アイヌの心情を思いやった松本大判官は黒田長官に上申し、彼らアイヌは宗谷定住を切望しているので、予定を変更して石狩入地を取止め、宗谷方面の適地に安住の許可を与えるよう懇請した。しかしその上申は即座に却下され、十郎開拓方針を立てるため石狩川をさかのぼり、十勝を超えて大津から様似に着いた時、彼の留守に乗じ、黒田長官の命令で、脅迫しながら樺太アイヌを石狩国対雁に強制移住させたという報に接した。「東京ヨリ鈴木大主典来リ、巡査二十人ニ銃ヲ持タセ、玄武丸ニハ大砲ヲ据エ、沖ニテ之ヲ放チ、巡査ハ上陸シテ樺太移住土人ヲ脅迫シ、船ニ乗ラシメ、小樽ニ上陸セシメ、更ニ弘明丸にて石狩川ヲ遡リ、対雁ニ上陸セシメタルニ、此の時酋長伝兵衛ハ小樽ニテ血ヲ吐テ死ス」この状況を知った十郎は辞職の決意を固め、千歳から川舟で下って対雁を視察、米などを与えて彼らを慰め、札幌に帰ったがついに出庁せず、黒田長官は極力遺留しようとしたが老母の病気を理由に郷里庄内に帰った。その後、再び仕官することなく、自ら犂鋤を取って農耕に従事した。

 対雁に移住した樺太アイヌは対雁土人と改称され、半農半漁の保護政策によって自立を図ったものの、異土の生活になじまない上に産業も振るわず、さらに明治十九年から二十年にかけてコレラと天然痘にかかり約三百二十人もが死亡した。

 樺太放棄政策の中心は、大久保-黒田のラインであった。明治六年の西郷を中枢とする征韓即行派と、大久保らのいわゆる内治派との角逐は、ついに内治派の勝利となり、征韓論者の一斉下野となった。

したがって、大久保のこの政策に対して激しい攘夷派の抵抗があったが、しかし大久保は政治家である。北方問題を南方問題にすり替えて、榎本公使の露都派遣の明治七年四月の同じ月に、西郷の弟従道に台湾征討を命じている。この様に、交換条約は内外に賛否両論の反響を呼んだが、当時の日本の国力の然らしむる結果であって、その時点の外交を軟弱外交と糾弾する前に、幕末における安政元年の「界ヲ分タズ」という不要領な決定がもたらしたものである。英国公使パークスの指摘した如く、この時点では「日本は樺太に対し疑わしい権利しか持っていない」という表現が適切かもしれない。

 

参考

平田久治・・・・樺太の栖原漁場の小頭、代々漁業に従事し、樺太アイヌが石狩に移住した際、その支配人として差配した。

 

続く

この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • 私の思っていた黒田清隆は榎本武揚の処遇等に見られるように、名長官のイメージでした。もともと、知っていることは少なかったのですが、少なくとも、今まで悪い評価の記事は見た記憶がありませんでした。しかし、本ブログでは樺太放棄論を建白したり、アイヌの居住地への考え方を巡り、私の黒田長官へのイメージが少し変わりそうな気もします。