自己紹介

小樽会に入れさせてもらってますが、本人は島根県出身です。
遡ると、益田は中世、島根県の益田七尾城主でしたが、応仁の乱の頃は大内、その後は毛利の下について、関ヶ原からは毛利藩の永代国家老となります。このときから我が家は分家となり江戸時代を過ごしますが、蛤御門の変で本家の国家老親施が切腹した後、祖父の祖父は家老をやり、明治4年の廃藩置県でお役御免となります。

その後一家は津和野を経て、高松へと引越し、そこで宣教師に会いクリスチャンとなります。その後、明治38年一家は東京に出ます。東京で祖父は結婚し母が生まれます。しかし、大正12年関東大震災を受け、横浜に引っ越します。一人娘の母は婿養子をとり結婚し兄が生まれます。その横浜の家も、戦争末期の大空襲で焼けてしまい、一族は祖母の実家の富士宮に移りますが、農業をやってみたいという希望や祖父の弟が呼んでくれたということもあり、島根県瑞穂町へ開拓団として引っ越しました。

昭和22年この瑞穂町で私は生まれました。弟も3年後に生まれます。我々3人兄弟は土地の方言がしゃべれず、関東弁のため皆から多少浮いていました。学校から帰ると、宿題をやった後は家畜の世話や畑の草取りがあり、後は前の池での魚釣りやチャンバラごっこやメンコ遊びなどしていました。子供の頃から絵はまあまあでNHKで表彰されたり、近所のおじさんの絵を描いてまわったりしていました。瑞穂町は先日テレビで「過疎の町」として紹介されてて、川の水のきれいさや、山椒魚(ハンザケ)が紹介されていました。

町の高校は分校しかなく、兄弟3人とも汽車を乗り継いで半日はかかる海辺の浜田高校へ行きました。3人とも15歳から下宿や寮で生活を始めたわけです。当時は特別奨学金というのがあり、それを受け高校や大学へ行けました。高校では美術部で油絵をやりました。先生は東光展に属されていてその考えで絵は習いました。色には色価があり、その塗り重ねで対象の存在に近づく、、という感じで、暗く重い絵にしか到達しませんでした。2年の秋に入選し東京都立美術館で展示されました。最近東光展の絵を見る機会がありましたが、その雰囲気はずいぶん変わって明るく派手になっていました。

大学は、兄は横国建築、私は京大土木(衛生)、弟は名古屋大電気へ入りました。私は、当時の学生運動の時代、1年留年して卒業しました。留年中は奨学金が切れ、家庭教師、飲食店、エキストラ、引越しとあらゆるバイトをしました。在学中は京大YMCAの地塩寮というところに住み、先輩にキリスト教哲学でしごかれました。今も寮の先輩会員です。15年前には京大Y100周年記念事業で、その会館がWヴオーリスの設計なので、これを登録文化財申請し、大規模修復し耐震補強もやる事業を担当しました。大学では一応美術部にも属していました。そこで衛生工学科の専門課程では美術部先輩の高月先生の講座に入り、ごみ処理を学びました。

昭和46年、卒業で就職先を選ぶのに「関西でごみ処理の会社」を希望すると、自動的にタクマとなりました。しかし入社してみると水処理部門に配属となり、以後、産業排水、し尿、下水、ごみ処理過程の排水処理、下水、上水、純水、超純水などほとんどの水処理をやることになりました。タクマでも会社の独身寮に住んでいました。29歳まで居たら、人事から「そろそろ身を固めて寮を出てほしい」と言われ、「相手がいない」と言うと「そりゃ沢山ある」と言われ見合い写真数10枚見せてもらいました。その中から1枚選び30歳で結婚しました。しかし15歳からその年まで、寮ばかりで家庭生活を知りません。それに独身中は仕事か飲んでるか麻雀してるかで、寮には寝るだけに帰るという生活だったので、家庭生活というのは初め結構苦しかったことを思い出します。

37歳くらいからは勉強するようになり、技術士にもなり、英語の勉強も始めました。純水、超純水の関係では海外で説明することが多く、実際英語が必要となりました。更に50歳の頃、手島さんの作った部署に所属し海外技術の導入を担当することになり、また英語が必要となりました。ここで、ごみメタン発酵技術を扱い始め、国内導入、マーケット作りということで、東京に出て「日本有機資源協会」という農水省下の団体の立ち上げを2年間手伝いに出ました。

この頃国立大学では社会人博士の制度が出来、手島さんもチャレンジしていました。僕も京大に残っていた同期の先生にごみメタン発酵技術の面倒をみてもらっていたので、その縁で同講座の博士課程に入学しました。しかし博士課程1年のとき、58歳となり子会社へ転籍となりました。子会社は藤沢市のごみ焼却発電するDBOの会社で、5年の約束でその会社の面倒を見ることになりました。

博士課程は3年ですが、全体で5年以内に論文を提出しないと課程博士になれません。なかなか論文が書けないでいたとき、家に帰ったら、クイーンのブライアメイが60歳で博士になったよという新聞記事が机の前に貼ってあり、これには勇気をもらいました。5年目、最後ギリギリ間に合って61歳のとき博士(工学)となりました。
よく欧州に行っていた頃、家内とも、「サラリーマン終えたら海外に住むのも悪くないね」と話しており、「そのときは博士号も役に立つかも」などと言っていました。しかし、藤沢が終わり、いよいよ当時63歳となりサラリーマン生活終わりとなるのですが、家内のほうは興味が京都のお茶の世界に移っており、また母の面倒が必要ということもあり、海外に出る気がなくなっていました。

そこでJICAのシニアボランティアに単独で応募することにし、探すと、コスタリカに大学の廃棄物管理の仕事があり、これに応募し合格しました。翌年1月から駒ヶ根の訓練所で2ヶ月間スペイン語の特訓を受けコスタリカに派遣されました。基本は2年なのですが、結局3年いました。
帰国後はケニヤにJICA専門家として派遣され、今度は行ったり来たりで1年半、再生可能エネルギー(メタン発酵バイオガス)による地方電化プロジェクトに加わり、昨年末無事終了しました。

それから、この間子供は男男女と3人生まれ、全員27歳で結婚し、孫が5人います。娘の結婚や孫4人の出産のとき、いつもどっか海外に私はいる羽目になりましたが、今はインターネットの時代でスカイプ連絡は出来て、特別恨まれてもいないようなので、まあいいかと思っています。(結婚式には帰って出席しました)

今は手島さんのスペイン語教室を手伝ったり、京都スペイン語ボランティアガイドをやったりしています。適当なのがあれば海外での仕事もまたいいかな、、等とも思っています。それから北海道には仕事でしか行ったことないので、今度はゆっくり観光でお邪魔したいとも思っています。

以上

 

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コメント

コメント一覧 (4件)

  • 技術者として豊かな経験を生かされ、60歳を過ぎてまた海外で仕事をされる行動力と衰えぬ若さに感心しました。いやいや素晴らしい。

  • 益田さんとは、私がプラント計画、彼が汚水処理担当時代から一緒に仕事をしていました。スマートな仕事振りで、いつか私の部署に迎えたいとずっと狙っていました。1997年に新部署を任されることになり、彼を指名して貰いました。ごみのメタン発酵(バイオガス化)では、技術提携、実証プラント製作などで力を発揮してもらいました。
    コスタリカから帰国したことを契機に、始めて間もない”スペイン語同好会”に誘い、飲み会に誘い、とうとう小樽会にまで誘いました。益田さんありがとう!

  • 素晴らしい活躍ですね。
    是非、スカイプ、、、
    Facebookか、Lineで繋がれないでしょうか?
    私も、水で環境を改善している会社を紹介しています。
    クリスチャンです。
    スカイプ出来るかどうか、分かりませんが、挑戦してみます。
    ハレルヤ*\(^o^)/*