■越中屋旅館と「柴田興次右衛門」さん
小樽についた日を含め、4日間は妹の家に厄介になったが、一日は越中屋旅館に、最後の夜は千歳空港が近い札幌のホテルに宿をとった。明治10年創業という越中屋は、市立文学館のすぐ近く。屯田兵に一夜の宿を貸したことから宿屋業を始めたそうで、玄関前の紹介板にも歴史が記されている。
まだ蝦夷とよばれた開拓当時、小樽も札幌も僻村と、ただの無人の原野だったわけで、私の実家である村上のひいひいじいちゃんあたりが、宿、食事を提供し、仕事の面倒もみる口入れ屋を開いていたそうだ。京都から松前にわたり、どうやら小樽で腰を落ち着けたのだろう。
石川の能登から風雲の志を抱いてやってきて、明治5年、酒造りを始めた柴田興次右衛門さん、あの時は有り難かった世話になったと、一宿の恩義に、息子の嫁にだろうか、村上の娘を貰いにきたという。嫁に行ったのは、私たちが柴田の伯母さんと呼んでいたテルさん。テルさんの息子は銀行員となり、会社を継がず、それも亡くなって、母の代まではあった親戚つき合いも、絶えてしまった格好だが、ずばりその名も「柴田興次右衛門」という純米吟醸酒に名残りをとどめている。出しているのは、北海道が誇る酒造メーカーにまで大きくなった「日本清酒株式会社」千歳鶴。
柴田興次右衛門さんを時々呑むが、のど越しの涼しい、なかなかの名酒ではないかしらと思う。
まあ、越中屋さんも明治の創業では、部屋に内風呂、トイレのあろうはずもないかと、女風呂に入りにいくと、風呂の栓が抜かれ、湯船は空っぽ。上がり場にいた女性に聞くも返事はなかった。宿の主人は、アジアの人が入ってましたからねと、慣れているのか至って屈託のない返事。フランスからも、スペインからも来るんです。インターネットで調べてね。言葉では苦労しますよ、とも。脱衣場に貼られた煤ぼけた紙に、小さく日本語で四ヶ条ばかり注意が書いてあっても、誰も読もうともしないだろうし、理解はしょせん無理。何ヵ国語かをちりばめ、可愛いいイラスト入りで、ジパング風呂の使い方を絵解きし、壁掛けにでもしておけば、楽しくない?
個々の旅館では手が回らないなら、観光協会あたりが、対応してあげたらと思った。素通りせず小樽で泊まってくれるお客にとって大切な一夜なのだし、異文化体験をビジュアル化した商品にしたら、おもしろい土産ものにもなるではあ~りませんか。
これって商機かな。
コメント
コメント一覧 (3件)
素敵な小樽の案内ありがとうございました(≧∇≦)
フェリー、忘れてました。
いいですよね。
私も行きたくなりました。*\(^o^)/*
たまさんの思い出は、まっさんを彷彿させますね。
親御さんの想いが、たまさんを護られたんですね。
ありがとうございますm(_ _)m
泣けてきました。笑)