実は運河といえば、私の中に祖母たまさんの若き日の姿が彷彿と湧き上がるのだ。
祝津の浜に上がる大量のニシンを加工し、本州に運んで売りさばく仲買がたまさんの父親の仕事だったが、現代の冷凍技術には及びもつかない大正期、いったん海が荒れれば氷が溶けた、魚がくさったと、お手上げ。これはほとんど博打のようなものだっただろう。
「羽振りの良い時もあって、何回も家を建て、いちしめ(屋号)のお嬢さんで女中の共を連れ学校に行っていた時期もあったが、そんなことは一時のことで、たいした貧乏したのさ。花火のあがる祭りのときは小豆を煮て、かき氷の屋台を出したり、朝の3時4時からニシンのもっこ担ぎにでたり。貧乏すれば、娘を娼妓やに奉公させても当たり前の時代だったから、うちの娘にそんなことはさせない。という父親が有難く、一所懸命働いて尽くしたのさね」
やがて胸を病んだ近所の知り合いに頼まれ、小樽中央通り郵便局につとめた後、跡取りの誠さんに見込まれ、局長夫人となり、局長代理となって戦時中の郵便局業務を一人で守り続けるのだが、玉や~と、花火が打ち上げられる夜空の下で、幼い弟たちと、゛しゃっこい氷はいかが゛゛しゃっこいよ(冷たいよ)゛と声を張り上げていた15、16歳のうら若い祖母たまさんのワンシーンは、わが家系図に秘められた忘れられない一コマだ。鎮魂の想いは、小樽繁栄への商機を願う心と深く重なってくる。
■緑ヶ丘の母校。周辺は、おいしい散策ゾーン
夏の帰省の目的は、墓参りですが、今年は何をおいてもこの1月、くも膜下出血で倒れた友人のお見舞いがありました。
ニセコの山裾360度、見渡す限りの大豆畑に囲まれたただ中で、一人住まいをしていた高校の同級生が、どか雪を除雪中倒れたのです。幸運にも近隣の方に発見され、発見5時間後には札幌の病院で手術。2度の手術で水頭症の危険を免れ、私が訪ねたときには、銭函の札樽病院でリハビリ進行中でした。ほんとに奇跡的な幸運と、回復力!チャーミングな笑顔を取り戻すことができたのも、介添えできるお姉さんがいたこと。札幌周辺にすむ同級生が、意識のない時から毎週のように通い、励まし続けたのを神さまが見て、助けてくださったのだと思うほかない回復ぶりでした。病室を訪ねると、ムラカミさん、と手を差出し、しっかりと私の手を握ってくれました。人の名を口に出して呼んだのは、初めてとか。みんな感激でぐっしょり涙、涙・・・
私たちが通っていた頃は、現小樽商業高等学校は緑陵高校とよばれており、「獅子の会」年度の3組特別コースは、女子が僅か8名だったので、特に絆が強かったのでしょうか。すでに二人が欠けているので、これ以上はごめん。という気持ちも強かったのです。
コメント
コメント一覧 (3件)
素敵な小樽の案内ありがとうございました(≧∇≦)
フェリー、忘れてました。
いいですよね。
私も行きたくなりました。*\(^o^)/*
たまさんの思い出は、まっさんを彷彿させますね。
親御さんの想いが、たまさんを護られたんですね。
ありがとうございますm(_ _)m
泣けてきました。笑)