おもいでポレポレ 夏旅????おたる8日間

実は運河といえば、私の中に祖母たまさんの若き日の姿が彷彿と湧き上がるのだ。

祝津の浜に上がる大量のニシンを加工し、本州に運んで売りさばく仲買がたまさんの父親の仕事だったが、現代の冷凍技術には及びもつかない大正期、いったん海が荒れれば氷が溶けた、魚がくさったと、お手上げ。これはほとんど博打のようなものだっただろう。

「羽振りの良い時もあって、何回も家を建て、いちしめ(屋号)のお嬢さんで女中の共を連れ学校に行っていた時期もあったが、そんなことは一時のことで、たいした貧乏したのさ。花火のあがる祭りのときは小豆を煮て、かき氷の屋台を出したり、朝の3時4時からニシンのもっこ担ぎにでたり。貧乏すれば、娘を娼妓やに奉公させても当たり前の時代だったから、うちの娘にそんなことはさせない。という父親が有難く、一所懸命働いて尽くしたのさね」 

やがて胸を病んだ近所の知り合いに頼まれ、小樽中央通り郵便局につとめた後、跡取りの誠さんに見込まれ、局長夫人となり、局長代理となって戦時中の郵便局業務を一人で守り続けるのだが、玉や~と、花火が打ち上げられる夜空の下で、幼い弟たちと、゛しゃっこい氷はいかが゛゛しゃっこいよ(冷たいよ)゛と声を張り上げていた15、16歳のうら若い祖母たまさんのワンシーンは、わが家系図に秘められた忘れられない一コマだ。鎮魂の想いは、小樽繁栄への商機を願う心と深く重なってくる。

■緑ヶ丘の母校。周辺は、おいしい散策ゾーン

夏の帰省の目的は、墓参りですが、今年は何をおいてもこの1月、くも膜下出血で倒れた友人のお見舞いがありました。

ニセコの山裾360度、見渡す限りの大豆畑に囲まれたただ中で、一人住まいをしていた高校の同級生が、どか雪を除雪中倒れたのです。幸運にも近隣の方に発見され、発見5時間後には札幌の病院で手術。2度の手術で水頭症の危険を免れ、私が訪ねたときには、銭函の札樽病院でリハビリ進行中でした。ほんとに奇跡的な幸運と、回復力!チャーミングな笑顔を取り戻すことができたのも、介添えできるお姉さんがいたこと。札幌周辺にすむ同級生が、意識のない時から毎週のように通い、励まし続けたのを神さまが見て、助けてくださったのだと思うほかない回復ぶりでした。病室を訪ねると、ムラカミさん、と手を差出し、しっかりと私の手を握ってくれました。人の名を口に出して呼んだのは、初めてとか。みんな感激でぐっしょり涙、涙・・・

私たちが通っていた頃は、現小樽商業高等学校は緑陵高校とよばれており、「獅子の会」年度の3組特別コースは、女子が僅か8名だったので、特に絆が強かったのでしょうか。すでに二人が欠けているので、これ以上はごめん。という気持ちも強かったのです。

 

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コメント

コメント一覧 (3件)

  • 素敵な小樽の案内ありがとうございました(≧∇≦)
    フェリー、忘れてました。
    いいですよね。
    私も行きたくなりました。*\(^o^)/*

    • 新日本海フェリーの船旅は私も大好き。個室もよいし、食事もおいしいし、甲板への通路にある椅子で読書もよし。
    • 越中屋さんの記事ですが、いろんな国から、文化の違うお客さんが急増するとなると、その対応には、いろいろ工夫が必要となるのでしょうが、これは小樽だけの問題でなく、日本の各地のテーマでしょうからその工夫には今後とも目を凝らしていこうと思います。
  • たまさんの思い出は、まっさんを彷彿させますね。
    親御さんの想いが、たまさんを護られたんですね。
    ありがとうございますm(_ _)m
    泣けてきました。笑)