あれこれ野球と樽協

野球と小樽野球協会:あれこれ思い出すこと

小樽市長の迫俊哉さんが高校・大学時に野球部で活躍し、社会人となってからもクラブチーム「樽協」の選手や部長であったと伺い、私も中・高時代樽協の試合をよく観戦したことやプロ野球,小樽高商対北大予科定期戦、はたまた三角ベースの草野球などあれこれ思い出しています。それらを書いてみます。

小樽公園グランド:あらゆるスポーツの試合や練習が行われる市民総合運動場であった。陸上競技の練習や競技会、経専のラグビー部の練習や試合もここで行われた。ここで樽協の外野手・川崎選手(立大)が後輩樽中野球部の部員たちにこまごまと指導していることもあった。樽協の対外試合もここで行われていた。私が樽協の試合観戦を始めたのは中2の時街を歩いていると「立教大学来る」と書いた樽協のポスターを見て、初めて試合を見に行ったことに始まる。その後道内の実業団チームや慶応大学との試合を観戦し、次第に選手の名前などを知るようになった。

しかしこのグランドで正式の野球試合をするには問題点があった。それは外野の後ろ側に柵が無いたいことであった。外野手を抜いた打球は際限なく転がって崖下に落ちてしまうこともある。このため試合の時は外野手の定位置の20メートル位後ろの地上にレフト線からライト線まで円形に縄を置き、「縄を越えた打球はフライでもゴロでも3塁打とする、打球が直接縄をオーバーして落下した時はホームランとする」という変則的ローカルルールが適用されていた。強打者目時選手はしばしばこの縄越え3塁打を打っていた。そんな事情だったので早くから専用球場建設の要望が高まっており、突貫工事の結果昭和23年(1948)春待望の桜ケ丘球場が開場した。

草野球:中学生の頃から近所の友達とキャッチボールでよく遊んでいた。長中2年の頃学校の帰りに入船町の友人佐藤惇君の家によく立ち寄った。佐藤君のご両親や下宿していた村上さんという経専生は私の知識・情報の宝庫であった。そしてバットとクローブを持って近くの北海道藁工品会社の社長で小樽高商1期生の飯川文三さんの立派な邸宅の前の少し傾斜のある広場で、近所の友達も加わり三角ベースの野球をした。時々息子さんの小樽経専生・飯川昭夫さんが家から出てきて、にこにこしながら我々の野球を見ていた、佐藤君は飯川さんを「アキオさん」と呼んで親しそうだった。昭夫さんはすらりとした、やさしそうなお兄さんだった。昭夫さんは我々にカーブの投げ方などを教えてくれた。それで野球の選手であることが分かった。我々のボールが飯川邸の庭に入ってしまった時は恐る恐る庭に入りボールを拾ってきた。庭に面する部屋には飯川夫人が座っていたが、叱られることはなかった。また近所の友達とも公園グランドで空いている場所を見つけて三角ベースの試合をよくやった。また潮陵高校1年の春、樽中出身者対長中出身者の野球試合を公園グランドでやった。私はライトを守り、打順も下位だった。今覚えているのは樽中入江―堀のバッテリー、私は1度入江君の玉を3塁手石田君の頭を越えてレフト前にクリーンヒットして皆を驚かせたことくらいである。

小樽経専対北大予科定期戦:札幌・小樽と隔年で行われる経専対予科対抗試合も楽しみの一つであった。昭和23年の春、経専/予科の野球試合を観戦した。経専のトップバッターでショートストップの飯川選手は鋭い打球と華麗な守備を見せてくれた。また経専の平瀬投手と予科の平瀬投手の兄弟対決とも云われ、私は凄い兄弟がいるものだなと感心した。どちらが勝ったかは覚えていない。飯川選手はその後慶応大学本科に進学したと聞いた。1度ご挨拶したいと思っていたが、お会いする機会はなかった。

プロ野球観戦:戦後国民の娯楽としてのプロ野球人気は年々高まって来た。東急フライヤーズの大下弘選手は青バットで豪快なホームランをばかすか打ち、読売ジャイアンツの川上哲治選手は赤バットでライナーのホームランを量産した。私は中3の夏、友人佐藤惇君とともに札幌円山球場のレフト側外野席でフライヤーズ対大映スターズ戦を観戦した。試合前のホームラン競争でホームランの打球がバンバン飛んできて怖かった。試合はスターズが勝ったが青バットを持った大下選手は最後の打席でライト方向に大きな放物線を描くホームランを打った。高1の秋、小樽桜ケ丘球場で読売ジャイアンツ対西日本パイレーツの試合を観戦した。すでに2学期が始まっておりウィークデイだったので私は午後の授業をさぼり球場に駆け付けた。3塁側内野席なので選手の動きも良く見えた。赤バットの1塁手川上選手のホームランは出なかったが、プロ野球の公式戦をまじかに観戦できた。これで青バット・赤バット両方の選手を見ることができたことは幸運なことだった。

樽協の活躍:昭和23年桜ケ丘球場がオープンした。樽協の選手陣も充実し、道内や本州各地から実業団チームや六大学のチームが続々練習試合にやって来た。当時道内には樽協の他函館オーシャン、室蘭日鉄、札鉄、札幌スターズ、北炭夕張、三菱美唄、三井砂川、旭川グレートベアーズなどの実業団チームがあった。本州から練習試合に来る山藤商店、豊岡物産、立教大学、法政大学、明治大学などは先ず函館オーシャンと試合をし、その後小樽、札幌、旭川と連戦していくことが多かった。試合結果は翌日の道新にスコアとバッテリー名が載るので、これを見てそのチームの実力を推測した。私はほとんどの試合を見に行った。須貝監督率いる樽協のメンバーは、絶妙な制球力と外角低めに落ちるカーブを持つ河文雄投手(高岡中)、矢のような投球で2塁盗塁を防ぎ、バットを振り切り鋭い打球を飛ばす5番打者目時春雄捕手(光星商)、1塁不動の4番打者友田(小樽商)、2塁好守舟木(立命館大、のち監督)、3塁好打者飯島(小樽中)、ショート好守好打の2番打者安達(立大)、レフト俊足のトップバッター須川(立大)、センター攻・守の要川崎(立大)、ライト時にキャッチヤーを務める岸本(立大)と記憶している。樽協はこれら練習試合ごとに強くなったように思う。しかし函館オーシャンクラブは長い間北海道最強チームと云われ、東京後楽園球場で行われる都市対抗も当たり前のように毎年出場していた。6月第19回都市対抗野球北海道予選が円山球場で行われた。私は長中の帰り佐藤君らと一緒にバスで小樽駅前のアイスキャンディ屋さんに寄った、そこでおじさんが「樽協がオーシャンに勝ったよ」と興奮気味に話してくれた。準決勝で宿敵オーシャンを破ったことに私も狂喜し、明日の決勝で札幌スターズを破り宿願の後楽園出場を果たしてもらいたいと願った。翌日ラジオの実況を聞き樽協は見事にスターズを破り宿願達成した。私は嬉しさのあまり夕方6時ごろ小樽駅に選手を見に行った。選手が続々改札口から出てきた。札幌でお祝いの1杯をやったようでほろ酔いの選手を抱きかかえるようにして歓喜の凱旋をした。後楽園出場を前に樽協のメンバーは毎夕のように桜ケ丘球場で練習をしていた。河投手は目時選手を相手に熱心に投球練習をしていた。川崎選手が見守りアドヴァイスをしていた。8月後楽園の大会が始まった、私はトーナメント表を作った。樽協は1回戦不戦勝、2回戦で福岡西鉄と対戦した。当日ラジオで実況放送を聞いた。河投手が絶妙なピッチングをし、4回友田選手が両チーム最初のヒットを放つなど善戦したが3対0で敗れた。しかし小樽市民は樽協の善戦に心から拍手を送った。本大会は結局武末投手を擁する福岡西鉄が優勝した。しかし河投手の投球は高く評価され、ベースボールマガジン誌は日本を代表する投手5人に西鉄の武末投手、別府星野組の荒巻投手らとともに河投手を選んだ。この年の秋、樽協は桜ケ丘球場に函館オーシャンを迎え親善試合をした。都市対抗出場で小樽市民の人気はさらに高まり、この日の球場入場者は2万人に達した。試合はオーシャンが新たに加入した服部投手の好投により勝った。その後、樽協は舟木監督が就任し、中川翠投手(東京文理科大学)、江渕3塁手(小樽商大)、川村外野手(盛岡鉄道局)間瀬外野手(元セネタース)らが加入し戦力がさらに強化された。

翌昭和24年のシーズンはちょっと異変が起きた、河投手が一時的に樽協を離れたため仲川投手が主戦投手に、控えに砂沢投手(北海中)が入団した。仲川投手はスナップの利いた剛球とシンカーを得意とした。この年も山藤商店(前橋市)など本州からと北炭夕張や三菱美唄、立教・法政・明治などの大学チームが練習試合に訪れた。私はこの年もほぼ全試合を見に行った。仲川投手は連投することもあり大活躍した。夏休みの時期に来た大学チームの中には立教の主戦投手五井(のち近鉄パールズ)や法政の主戦投手関根(のち近鉄パールズ)など将来プロ野球で活躍する選手を近くで見ることができたのも幸いなことであった。秋ごろに札幌ホクレンとの試合で仲川投手はノーヒットノーランゲームを成し遂げた。仲川翠投手は翌年新設プロ球団・国鉄スワローズに入団した。当時国立大学出身者初のプロ野球入団と新聞が報じた。仲川選手は1年位後に退団し、小樽市の教育関係の仕事をした後、道立札幌東高校の校長を経て道高野連会長に就任した。

プロ野球旋風:プロ野球が隆盛するに従い新規球団が続々名乗りを上げ、リーグは分裂・再編が行われ昭和25年(1950)にセントラル(6チーム)、パシッフィック(最初は7、のち6チーム)の2リーグがスタートした。このため大学やノンプロチームから多くの有望な選手を入団させた。樽協からは24年に目時選手が太陽ロビンスへ、26年河投手が阪神タイガースへ、川崎選手が中日ドラゴンズへ、前記の通り仲川投手は国鉄スワローズへ入団した。結局目時選手のみが10年間プロ生活を送り、30年には本塁打14本を放つなど活躍した。

樽協は主力選手のプロ入りにより往年の戦力はなくなったと見られていたが、昭和30年には2度目の都市対抗北海道代表となるなど現在まで道内きってのノンプロ球団として大活躍中で、小樽市民に「わがマチの野球チーム」として親しまれている。

(以上私の記憶を頼りに駄文を書きましたが、事実と異なる点や私の思い違いが多々あると思います。この点ご容赦ください。)  sugarlover

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 樽協とは懐かしいですね。桜ケ丘球場がオープンした昭和23年は小学3年生でした。三角ベースの野球はいつものことです。プロ野球「南海ホークス」のファンで、木塚遊撃手がひいきでした。
    ある日、父に樽協の野球帽のマークの作成注文が入りました。「O」の飾り文字を刺繍でつくる仕事でした。父の本職は「縫い紋」です。そのマークを一個余分に作ってもらい、私の野球帽につけ友人たちに自慢していました。多分、小樽協会には無断だったと思います。

    「三角」の言葉には妙に懐かしい響きがあります。「三角ベース」や自転車の「三角乗り」など・・・ 子供の頃がいっぱい詰まった言葉と思います。

    sugarlover さん。懐かしいお話をありがとうございます。

  • 私も小学生まで少年野球をやっていましたので、近所の公園で三角ベースで野球をしていたことや、NHK少年野球教室で川上哲治氏に打撃指導を受けたことなど、懐かしく思い出させていただきました。
    私が知る小樽公園は、既に桜ヶ丘球場があるものでしたが、一昨日のシンポジウムで小樽公園(花園公園)の設計図を拝見する機会がありました。
    設計図には陸上競技場のようなグラウンドがありましたので、恐らくここで野球をされていたと思います。外野に柵がなくボールが崖下に落ちてしまうことや、外野に縄を置いてローカルルールを適用していたことなど、過去に思いを馳せながら投稿を拝見いたしました。
    ちなみに小樽公園(花園公園)の設計は、明治~大正初期の近代公園設計の第1人者であった長岡安平氏、当時の小樽公園は北海道の都市公園の先駆けであったとのことで、当時の小樽の土木・建設に国内一流の技術者が参加していたことを誇りに思います。
    読み応えある投稿ありがとうございました!