寺島伸二– Author –
寺島伸二
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国内旅行
楽しかった30周年記念旅行
10月15日楽しみにしていた松江・出雲の旅、生憎の雨の中、西梅田モード学園前午前8時出発、途中蒜山にて昼食、おいしいジャージー牛のソフトクリームを食べながら...寺島伸二 -
北海道関連の歴史
栖原家顕彰碑
永きにわたり、栖原家と樺太、択捉島、得撫島等の係わりをご投稿いただきました寺島伸二様より栖原家の屋敷跡を訪ねた際の写真をお借りする機会を得ましたので、下記ご...寺島伸二 -
北海道関連の歴史
掛け軸
正一位 秋葉大権現 栖原氏一統 栖原家の初代角兵衛茂俊(しげとし)は、房総半島で良い漁場を開発し、二代目角兵衛の俊興(としおき)は、漁業で蓄積した資本をもとに...寺島伸二 -
北海道関連の歴史
古文書 差入申地借證文之事
(写真の上でクリックして大きくしてお読みください)この證文は天保六未年十二月松前城下の商人滝本屋が唐津内町地面壱ケ所を借りた時にス当主栖原庄兵衛に差入れた借地...寺島伸二 -
北海道関連の歴史
栖原家と択捉島 その6(最終回)
栖原家の缶詰製造所と人工孵化文政四年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に還すと、高田屋嘉兵衛は場所を弟金兵衛にゆずって郷里淡路島に隠居した。(文政十年没)弟金兵衛...寺島伸二 -
歴史
栖原家と択捉島 その4
「択捉場所請負ノ命ヲ蒙レリ、然ルニ偶々()不漁連続シ加フルニ本州ノ農作稔ラズ米価非常ニ暴騰シテ輸入ノ道殆ンド絶ヘントシ為メニ漁獲物ノ購買力ハ頓(とみ)ニ減シ価...寺島伸二 -
歴史
栖原家と択捉島 その3
遠藤吉平氏の談(昭和ニ年)今より六十八年前(安政六年)予が十九歳の時、日本型船に乗り択捉に航して栖原漁場の鮭鱒を積み取りたる事あり、当時の航海は風浪の危険云...寺島伸二 -
歴史
栖原家と択捉島 その2
ところが天保五年の択捉島は「皆無不漁」であり、空船で函館へ戻る状態であったという。中村屋・関東屋が多額の仕込金を借りて返却不能に陥り、運上金も払えず、証人の...寺島伸二 -
歴史
栖原家と択捉島 その1
択捉島は寛政十二年(1800)の新規開発依来、直捌制()といって幕府役人が直接経営にあたってきたが、文化七年(1810)これを商人の請負制に改め、択捉航路を開...寺島伸二 -
歴史
寺島伸二 栖原家と樺太(北蝦夷) その6
明治三十九年七月石狩国ニ居住スル旧樺太土人モ亦一同相儀シ書ヲ栖原家ニ致シテ曰ク願書 私共祖先以来樺太島ニ於テ永年御店漁場ノ従事ニテ代々生計致シ来リ候処仝(...寺島伸二 -
歴史
栖原家と樺太(北蝦夷) その5
樺太アイヌの移住 樺太・千島交換条約は日本人漁業家に痛手を与えただけでなく、樺太南部居住のアイヌの生活にとっても突然押し付けられた大きな変革であった。しかも...寺島伸二 -
北海道関連の歴史
栖原家と樺太(北蝦夷) その4
樺太買収策の頓挫明治六年二月、副島外務卿は台湾生蕃(せいばん)の我が漂流民を惨殺せる事件の処理を談判するために、全権大使として清国に差遣された。副島が其の使...寺島伸二