歴史– category –
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一般情報
関ヶ原合戦史跡めぐり
山登りのトレーニングの一環として、冬は近郊歩きも取り入れている。ここ十年程は、飛鳥、山の辺の道、葛城など奈良県が多かったので、今年は趣向を変えて、関ヶ原古戦... -
北海道関連の歴史
栖原家と択捉島 その6(最終回)
栖原家の缶詰製造所と人工孵化文政四年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に還すと、高田屋嘉兵衛は場所を弟金兵衛にゆずって郷里淡路島に隠居した。(文政十年没)弟金兵衛... -
一般情報
沼山古墳
沼山古墳は奈良県橿原市南部の白橿近隣公園内にあり、我が家から150mの距離です。古墳横の案内板によれば噴丘規模は直径18m・高さ5.5mの円墳で、玄室(げんしつ:古墳内... -
歴史
栖原家と択捉島 その4
「択捉場所請負ノ命ヲ蒙レリ、然ルニ偶々()不漁連続シ加フルニ本州ノ農作稔ラズ米価非常ニ暴騰シテ輸入ノ道殆ンド絶ヘントシ為メニ漁獲物ノ購買力ハ頓(とみ)ニ減シ価... -
歴史
栖原家と択捉島 その3
遠藤吉平氏の談(昭和ニ年)今より六十八年前(安政六年)予が十九歳の時、日本型船に乗り択捉に航して栖原漁場の鮭鱒を積み取りたる事あり、当時の航海は風浪の危険云... -
歴史
栖原家と択捉島 その2
ところが天保五年の択捉島は「皆無不漁」であり、空船で函館へ戻る状態であったという。中村屋・関東屋が多額の仕込金を借りて返却不能に陥り、運上金も払えず、証人の... -
歴史
栖原家と択捉島 その1
択捉島は寛政十二年(1800)の新規開発依来、直捌制()といって幕府役人が直接経営にあたってきたが、文化七年(1810)これを商人の請負制に改め、択捉航路を開... -
歴史
寺島伸二 栖原家と樺太(北蝦夷) その6
明治三十九年七月石狩国ニ居住スル旧樺太土人モ亦一同相儀シ書ヲ栖原家ニ致シテ曰ク願書 私共祖先以来樺太島ニ於テ永年御店漁場ノ従事ニテ代々生計致シ来リ候処仝(... -
歴史
栖原家と樺太(北蝦夷) その5
樺太アイヌの移住 樺太・千島交換条約は日本人漁業家に痛手を与えただけでなく、樺太南部居住のアイヌの生活にとっても突然押し付けられた大きな変革であった。しかも... -
北海道関連の歴史
栖原家と樺太(北蝦夷) その4
樺太買収策の頓挫明治六年二月、副島外務卿は台湾生蕃(せいばん)の我が漂流民を惨殺せる事件の処理を談判するために、全権大使として清国に差遣された。副島が其の使... -
歴史
栖原家と樺太(北蝦夷) その3
副島種臣外務卿の樺太買収策 維新政府は1868年(慶応四年九月八日)、明治と改元、首都を東京に移したが、一方幕府の脱走軍、榎本武揚らは箱館の五稜郭に籠り、独... -
歴史
栖原家と樺太(北蝦夷) その2
従来樺太の漁業はアニワ湾全部及び西海岸の南部が主でありましたが、ロシア人が頻りに樺太を窺うを以って幕府は其の奥地を開拓して、これに備えようとして、越後の人松...